の宴

 大学三回生の夏、一人旅に出る者は多い。
 インターンシップや企業体験とまではいかないが、自己分析に有効だという信仰はいまだ根強いのであろう。
 それに楽だ。要は旅行なのだし。  就活のためと言えば、親への通りもいい。これから都合一年間は、やれ合同説明会だ、やれSPIだ、やれ面接だと忙しくなるし、就職すればもっと時間はなくなる。そうやって羽を伸ばす時間を得てもバチは当たらないだろう。
 吉川弘之も、大体そういう考え方に基づいて、春学期が終わってすぐ実家を出た。
 行き先は国内だ。友人の中にはアジアやアフリカの発展途上国に行く、というバックパッカーまがいの猛者もいたが、治安や食べ物のことを考えると、弘之はどうも二の足を踏んでしまう。
 信州の山奥を選んだのも、特に理由があるわけではない。北海道はあまりにベタだし、沖縄は暑い。中国地方はぱっとしないし、東北は移動が大変だ。九州に行ったら博多なんかの町で遊んでしまいそうだし、北陸では何をしたらいいのか分からない。近畿・東海あたりは普通に都会だろうし、四国はちょっとなじみがなかった。かと言って、同じ関東圏の群馬・栃木あたりではあまり冒険という感じもない。そういう消去法で選んだだけだった。
 宿泊先は特に決めていなかった。ただふらふらと歩いて回る。高原鉄道というのに折角だから乗ってみようか、野尻湖の博物館でナウマン象でも見ようか、その程度だ。中央アルプスを登る気などさらさらない。気楽なだけの旅だった。

 先の見えない山道を、弘之は歩いていた。ここが何県なのかも見当がつかない。要するに、道に迷っていた。周りには人っ子一人いない。前日は長野市内のホテルで一泊した。これじゃあ冒険じゃない、とさすがの弘之も思い立ち、山に分け入ったのだが……。
 特にガイドブックや地図などを持ってこずに、適当に歩き回っていたのが災いした。もう六時を回っている。今夜泊まるところはあるだろうか。車はおろか、人の気配さえない。空も薄暗く、黒い雲がゆっくりと動いている。周りの空気もなんとなく水っぽい臭いがしている。一雨来そうだ。
 そう思って見上げた顔に水滴が一つ。やれやれ。一つ首を振って弘之はリュックを下ろし、折り畳み傘を探した。
 如何にも夏らしい夕立の中を、弘之は歩く。傘に当たる水滴の音は重く、破れるかと思うほどだ。当たりも煙っていて、一歩先も見えない。
 最悪だ。一人旅になんて出なければよかった。普通に短期のアルバイトを探して、それに精を出していたほうがよかったかもしれない。あるいは、バックパッカーまがいにくっついて、アジアなりアフリカなりを放浪すればよかった。いや、それもどうだろう。
 気落ちすると、歩みのペースも自然と遅くなる。俯いて、気だるい体をどこに引きずっていくのかも分からない。
 傘をたたく雨足が、幾分和らいだように思えた。刹那、視界の片隅で何かが揺れた。顔を上げると、オレンジ色の灯りが二つ見える。人の灯りだ。
 雨はもうほとんど止んでいた。弘之は傘を畳み、水溜りを踏み越えてそちらへ駆けた。木々のトンネルを抜け、開けた土地にそれは建っていた。
 古い煉瓦造りの洋館だ。二階建てで、外壁には蔦が絡まっている。開け放たれた鉄の門扉の向こう、手入れされた庭を越えた先、ポーチに灯るランプを模した電燈の明かりが、弘之の目にしたオレンジの正体であった。
 門扉の隣には御影石の表札が付けられている。「紅葉館」と彫り付けられていた。よく見ると、庭には楓の木が何本も植えられていた。
 電燈が灯っているということは、少なくとも廃屋ではない。庭先も手入れがされている。ここの住人に道を聞こう。あわよくば、泊めてもらおう。いいじゃないか、冒険だ。折れかけていた心を回復させて、弘之は庭に足を踏み入れる。
 踏み固められた小道を通り、ポーチまで後数歩の所で、何かの軋む音が聞こえた。館の木製の扉が開いたのだ。驚いて弘之は声を上げそうになる。庭に入ったことを注意される、と咄嗟に思った。
 扉の向こうから姿を現したのは、右手に火の灯ったカンテラを持った、少女であった。
 20歳を過ぎた弘之より年下に見える。色白で、唇の赤が際立って見える。
 濃紺のワンピースに白いエプロン、頭にはフリルのついたカチューシャを付けたその出で立ちは、嘗て弘之が友人と冗談半分で入ったカフェのメイドのようであった。
 少女は弘之の姿を頭の先から爪先まで眺め、笑顔を作って言った。
「ようこそ、紅葉館へ!ご宿泊ですか?」
 元気な声だった。少し気おされ、同時に弘之は安心もする。
「ここは、ホテルなんですか?」
「そんないいものではないです。せいぜい、旅館ですね」
 笑顔のまま少女はそう言った。弘之はどう反応すればいいか分からなかったが、とりあえず曖昧に笑っておいた。
「それで、お泊りになりますか?」
 一瞬考えて、弘之は逆に尋ねる。
「この近くに、他に泊まれる場所ってありますか?」
「向こうの大木のうろなんかは、雨風しのげてお勧めですよ」
 そういう野宿に適した場所を、世の中の人間は泊まれる場所とは呼ばないのだが。
「宿泊施設のことなんですけど……」
「ああ、でしたらウチぐらいですね。10kmぐらい先にキャンプ場があるくらいです」
 これから10kmも歩きたくはない。客を逃さないための嘘かも知れない、とは一瞬考えたが、これも何かの縁か、とも思う。
「じゃあ、ここでお世話になりましょうかね」
「はい、ありがとうございます。こちらへどうぞ」
 木の扉を大きく開け放ち、メイド服の少女は弘之を中に迎え入れた。

 洋館の中はひんやりとしていた。冷房がよく効いている、というよりかは自然の冷たさだ。弘之は高校生のときに修学旅行で行った沖縄のガマを思い出した。
 玄関を入って、正面に大きな階段があり、その上が客室になっているようだった。階段のすぐ右手側にはフロントらしいスペースがある。
 左手側には黒革張りのソファが二脚向かい合って、ガラスの机を挟んでいる。右手側は食堂らしく、奥にグランドピアノが見えた。
 少女は受付の内側に回り、弘之をそちらに呼んだ。言われるままに宿帳に名前を書こうとして、弘之は手を止めた。
「そう言えば、ここって一泊お幾ら位……?」
「一泊二食付きで1万8千円です」
 リアルな高さだ。所持金の半分以上が飛ぶ。あまりに表情がこわばっていたのか、少女は上目遣いに弘之の顔を覗き込んできた。
「難しいですか?」
「え。いやあ、その……」
 10km先というキャンプ場コースも一瞬頭をよぎる。
「特別に8千円にしますね」
「え?」
 一気に1万円引きとは、共同購入クーポンもびっくりだ。
「久しぶりのお客さまなので、サービスさせて頂きますね」
 なるほど、客を逃さないためか。それにしたって、安すぎやしないだろうか。
「ここは元々、わたしの祖母が道楽で始めたような所なんです。従業員も、わたしとシェフの安曇さんぐらいしかいませんし」
「そうなんですか」
 家族営業ということか。8千円でいいのなら、好意に甘えさせてもらおう。安心して、宿帳にサインした。

 メイド少女は香崎朱々と名乗った。
 「お気軽に朱々ちゃんとお呼び下さい」という彼女は、夏の間だけ祖母の経営するこの紅葉館で、「仲居さんの真似事」をしているらしい。
 朱々にリュックを持ってもらい、弘之は彼女の後について階段を上った。通された部屋は二階の左端、ツインの部屋だった。
「本日は吉川様しか宿泊されておりませんので」
「すいません、何から何まで……」
「いえ、お客様に満足いただくのがわたし達の仕事ですから」
 満面の笑みで朱々がそう言った時、奇妙な声が聞こえた。
 耳の奥に粘りつくような長く、足の裏から頭の先に突き抜けるような大きな声だ。明確な意味を持った言葉ではないのに、悲しげに聞こえた。
「……今のは?」
 引きずられるように小さく消えていった声の出所を探るかのように、弘之は辺りを見回した。落ち着きない彼とは対照的に、朱々は平然と応えた。
「鬼の声です」
「おに?」
 弘之は眉根を寄せる。
「ええ。この紅葉館は、明治時代に華族が建てた別宅だったのを、祖母が買い取ったのですが……」
 その華族の娘が、この別荘で働く下男と恋に落ちた。身分違いの恋が許されるはずもなく、下男は暇を出される。郷里へ帰る道中、下男は何者かに襲われて死んでしまう。それは、その家の当主、つまり娘の父親が放った刺客であった。
「ところが、娘は下男の子を身篭っていたのです」
 娘の強い希望で、堕胎はされなかった。彼女の父にも、自分が下男を殺した後ろめたさがあったのだろう。産み落とされたその子を娘は必死で守った。しかし……
「子どもが十を過ぎる前に、娘は肺病を患い、死んでしまった。残った子どもは忌み子として、この館の地下に閉じ込められたそうです」
 表には出せぬ不義の子であった。当主はその子に、自分が殺させた下男の面影を感じ、傍に置くことも嫌がったのだろう。
「暗い牢屋と粗末な食事。その子はじわじわと弱っていきました」
 育ち盛りの子は腹をすかして泣き叫ぶ。苛立った使用人たちは、子どもに辛く当たる。
「一年ほどで、子どもは地下で餓死しました。やせ細り、目玉ばかりがぎらついたその形相はまるで」
 角のない鬼のようであった。
「当主の男はその子の死体をそのままにして、地下室を埋めてしまいました」
 その日から、当主の様子がおかしくなっていった。鬼の子が来る、鬼の子が来るとぶつぶつ言っては、部屋へ閉じこもるようになった。
 そして本宅へ戻る日の前日、事件は起きた。
「当主は鬼を追い払う、と言って日本刀を抜き放ち、家族や使用人たちに切りかかりました」
 結果、一家は全滅。残った当主は警察に連行され、取調べを受ける。しかし、当主が口にするのは「鬼の子が来る。鬼を殺さねば」それだけであった。三日の後、拘置所で首をくくった。
 人々は、鬼が当主をとり殺したのだと噂しあった。
「それから100年以上経ちましたが、鬼はまだこの屋敷にいるのでしょう。そうして今もお腹をすかせて、唸り声を上げている」
 弘之はぞくりとした。この手の話は得意な方ではない。思わず両の腕をさする。
「鬼が怖いですか?」
 小首を傾げて朱々は尋ねた。自分より年下の女子に、弱みを見せたくないというプライドは、弘之も持ち合わせていた。
「そ、そんなことないさ!」
「声が震えてますよ」
 図星を突かれて、更に弘之は動揺した。朱々はおかしくてたまらないといった様子で笑った。
「なーんて、今のは作り話ですよ」
「……え?」
 弘之は展開についていけず、目をぱちぱちとさせた。
「この館の裏は、崖になっているんですよ」
 そちらをどうぞ、と朱々が指した部屋の窓の下を恐る恐る覗くと、館を囲う塀の向こうはすぐに崖になっており、岩壁の側面から張り出した木々の隙間から、細い川が流れているのが見えた。
「この崖には大きな穴が開いていましてね」
 その穴を風が通り抜けると、唸り声のような音が鳴るのだという。
「吉川様が怖そうなご様子だったので、からかってしまいたくなったのです」
 申し訳ございません、と朱々は深々と頭を下げた。
「ははははは、そうなんだ……」
 弘之は、乾いた笑いを浮かべるしか出来なかった。

 ご夕食の前にお風呂はいかがですか、と朱々に勧められるまま、弘之は部屋で一息つく間もなく、離れの浴場へと案内される。
 お背中お流ししますね、という朱々の申し出を丁重に断り、弘之は一人脱衣所に足を踏み入れた。
 木製のロッカーの中には竹を編んだ籠、その対面に並ぶ鏡台と傍らに置かれた体重計、リノリウムの床に敷かれたござ、出力の低そうな備え付けのドライヤー、剃刀の自販機に壁に据え付けられた青い羽の扇風機と、どこの銭湯でも見られるありきたりな空間だった。
 大理石の床で白亜のビーナス像が……というような西洋風を期待していた弘之は少し拍子抜けたが、この方が気が楽でいいか、と考え直して服を脱いだ。
 風呂場もまた、洋館には似つかわしくない岩で囲われた露天風呂であった。背後には飛騨山系の山々がそびえ……などと弘之は心の中で勝手なナレーションを付けた。実際はどこの山なのかなんて全く分からないのだが。
 湯に浸かって、弘之はようやく人心地つく。
 この宿が見つかって本当によかった。朱々は少しズレているが、献身的でいい子だ。この館に二人きり……いや、コックがいるのか。まあ大した問題ではない。コックは厨房だ。
 もしかしたらチャンスがあるかもしれない。湯煙の中に、朱々の笑顔が浮かぶ。田舎のこんな山奥にいるにしては、可愛い子だ。いや、都会に出しても遜色ないだろう。夏休みにこんなところで手伝いなんて、刺激が欲しいんじゃないだろうか。
 そうだ、積極性を出すのだ。就職活動に役立てるためにも。そうそう、そういう言い訳もあるな。
 ああくそ、背中を流してもらうのを断るのではなかった。ここで強引にいっても、彼女の言い出したこと、年頃の男女が風呂場で二人なんて、何が起こるか分かってるはずだ。
 もしかして、そのつもりだったのか?なら少し巻き返したほうがいいかもしれない。そうすれば、今夜彼女が部屋を訪ねてくることもあるだろう。
 そこでふと、背筋が寒くなる。温かい湯に肩まで浸かっているというのに。


 見られている。


 跳ねるように立ち上がり、弘之は辺りを見回した。
 動物か?いや、それらしい影はない。
 背後の山との間には、木製の壁がある。それに、崖になっていたはずだ。そうそう動物、ましてや人間なんて入ってこられないだろう。
 そんなことを考えていると、またあの風の反響する音が、「鬼の声」が聞こえた。
 半身が湯に浸かりながらも身震いして、弘之は湯船を出た。
 そして体を洗うと、早々に浴場を後にした。

 宿備え付けの浴衣に袖を通し、男湯の青い暖簾をくぐると、本館との渡り廊下に朱々が立っていた。彼女は弘之の姿を見止めると、笑顔でこう言った。
「お食事の用意ができています」
 えらく準備が早い。視線のこともあって、10分も入っていなかったというのに。一人分だからか?それとも、弘之がチェックインした時から準備していたのだろうか。
「あ、はい。じゃあ、いただきます」
「では、こちらへ」
 朱々の後ろを歩きながら、弘之は彼女の背中に話しかける。
「朱々さんは……」
「朱々ちゃんです」
 訂正されてしまった。
「……朱々ちゃんは、夏の間だけここで働いてるんだよね?」
「ええ」
「ここで働いてない時は、何をしてるの? 学校?」
「ええ、高校生です。でも、田舎の学校だから、あんまり……」
 二人は本館に足を踏み入れる。
「彼氏とかさ、いるの?」
 質問してから、がっつきすぎたと内心後悔する。
「いませんよ」
 くるり、と振り返った朱々は、にっこり笑って言った。
「え?そうなんだ……かわいいのに」
「ふふ、ありがとうございます」
 でもね、出会いがないんですよ。そう言う朱々の視線は、弘之を品定めしているかのようだった。
「何て言うか、わたしは刺激を求めてここの旅館手伝ってるんです」
「分かります!僕も、一人旅してるの、そういう理由だから……」
 急いたように言う弘之に、朱々はうなずいてみせた。
「一夜だけですけど、よろしくお願いしますね」
「こ、こちらこそ!」
 刺激。一夜。思わせぶりな彼女の一言に、弘之の心は弾んだ。

 食堂で弘之に供されたのは、山菜や川魚などを使ったコース料理であった。洋館、ということもあってか、洋風に仕上げられていた。
 メインディッシュの肉は、弘之が食べた事のない味だった。強いて言うなら、豚肉に近い。給仕をしてくれた朱々に尋ねると、猪の肉という事だった。
「シェフの安曇さんの、お兄さんが猟師をされていて、いつも新鮮なお肉を卸してくれるんですよ」
 山菜や川魚も、近隣の山で採れたものだという。
「この山菜は、血液をさらさらにしてくれるんですよ。現代人は血液ドロドロですからね。弘之さんも、町じゃお肉ばっかり食べてるんじゃないですか?」
「え? ああ、うん」
「こういう健康的な食材もたまには食べてくださいね」
「く、詳しいんだね」
 健康オタクのおばさんのようだ、とふと思った。
「やっぱり、山で生活してるから?」
「テレビで見ました」
 少しがっかりした弘之だった。
「それにしても、ふふ、美味しそうだなあ」
 朱々の微笑みを見て、弘之は気を取り直して尋ねる。
「朱々ちゃんは、ご飯は……?」
「後でいただきますよ、たっぷりと」
 何故か背筋が寒くなった。風呂の時といい、風邪かもしれない。弘之は肩を少し回して料理を口に運んだ。
 デザートは西瓜だった。こちらは近隣の農家から分けてもらったものらしい。
 弘之がそれを食べ終わるのを見計らって、朱々は彼の向かいの椅子に座った。顔を近づけ、声をひそめて彼女は言う。
「今夜は」
 弘之はどぎまぎしながら彼女の目に映る自分を見、視線を外す。
「よかったら、お部屋の鍵はかけないでくださいね」
「え?それって……」
 朱々は席を立つと、西瓜の皮と種が載った皿を机から取り上げる。
「刺激、差し上げます」
 その微笑みは、今までよりも妖艶に見えた。

 弘之は部屋に戻ると、すぐにベッドに横になった。お腹がいっぱいだったのもあるが、それ以上に食堂で聞いた朱々の言葉に、悶々としていた。
 刺激をくれる? 夜に? 鍵をかけないで?
 彼女の笑顔が目の奥に浮かんでは消える。出迎えてくれた時の、鬼の声の話をしてくれた時の、彼氏はいないと言った時の、さっきの食堂での去り際の。
 あどけないような、しかし妖艶な。ああ見えて肉食系女子なのか。一体何人くらいの泊り客とそうして夜を共にしたのだろうか。
 弘之にはまだ経験はなかった。彼女もいない、サークルにも属していない彼の、一大決心がこの一人旅である。
 初めての相手は、処女がいい。そんな風に弘之も考えないでもなかった。だが、据え膳食わぬは男の恥、ともいう。
 大体朱々はかわいい。こんな田舎には勿体無いくらいだ。何人と寝てるかなんて、そんなことを気にするのは、女々しいじゃないか。
 ここで自分を変えるのだ。弘之はそういう建前で臨むことにした。
 横になっていると、だんだんと眠くなってきた。そう言えば今日は終日山道を歩き通しだった。お腹もいっぱいだ。
 朱々は夜来ると言ったが、彼女にもまだ仕事があるだろうし、すぐには来ないだろう。多分、12時ごろだ。
 携帯電話で時計を確認すると、まだ8時だ。少し眠ろう、と弘之は部屋の灯りを落とした。
 真っ暗の部屋の中では、あの「鬼の声」がよく聞こえる。夕方よりも大きいようだ。今夜は風がよく吹いているらしい。その割にあまり窓は揺れていないが、立て付けがいいのだろう。
 そんなことを思いながら、弘之は眠りの中に落ちていった。

 じっとりとした寝巻きの中で、弘之は目を覚ました。暗闇の中で、右に左に目玉を動かす。薄ぼんやりと家具や調度品が見える。じっとりと蒸し暑かった。
 何か恐ろしい夢を見た気がする。確か……いや、もう定かではない。
 「鬼の声」はいよいよ物悲しく、一層大きくなっているように思えた。今何時だ?確認しようと身を起こした時、ドアノブを捻る音が聞こえた。
 来た。
 半身を起こしたまま、彼女の来訪を待つ。ぺたぺたという足音が近付いてくる。
 弘之の目の前に姿を現した朱々は、肩から一枚のバスタオルを羽織っているだけであった。両端が手でしっかりと握られたタオルは腰までを包み隠し、その下には白い腿と脛がむき出しであった。
 朱々は、弘之に微笑みかけるとタオルを開き、裸身を露わにした。薄闇の中で、少女のそれは白く輝いて見えた。
 弘之は音を立てて生唾を飲み込む。彼女の体から目が離せなかった。股間が熱く疼いている。朱々はバスタオルを床に落とすと、ゆっくりと近付いてきた。
「弘之さん」
 朱々は弘之の腿の上に座ると、覆いかぶさるようにして囁いた。そして、彼の浴衣をはだけさせ、帯を解き、下着をずらす。
「朱々ちゃん……」
 弘之も彼女の名を呼んだ。すると朱々は、弘之の首筋の汗を舐める。そのまま、耳にこう囁いた。
「ごめんなさい、わたし嘘ついちゃいました」
「ん?」
 聞き返しながら、しかし弘之にはそんな事はどうでもよかった。腕を回して彼女の肩を抱いた。
「昼間の話、本当なんですよ。鬼は、いるんです」
 言って、朱々は首筋から喉仏にかけて舌を這わせる。ざらつき湿った感触に、弘之は打ち震えた。股間の疼きが彼女の腹に触れる。
 鬼?
 問い返そうとした刹那、その言葉を濡れた硬質の何かが握り締めた。
 何か紐のようなものが千切れる音、次いで激痛が弘之の喉を襲う。痛みに耐えかね声を上げようとしたが、ひゅうひゅうと音がするだけだった。
 声にならぬ叫び、頬に落ちる雫、彼女の方から手は離れて虚空を掴み、ばたつく足は押さえつけられて動けない。
 乱れる視界の中で、弘之は見た。何かをくわえ、目をぎらつかせた朱々の姿を。
 同時に、めりめりと何かが裂ける音を聴覚が捉える。朱々の額にかかる、切り揃えられた髪を押し分けて、捻じれて尖ったものが二本、生えてきていた。
 身は引けない。押さえこまれている。腕も捕らえられた。触れた時に分かったが、爪も長く鋭く伸びていた。
 朱々はくわえた何かを口中に吸い入れ、咀嚼し、嚥下すると真っ赤な口を開いて笑った。
「鬼はわたしです」
 あの音が、「鬼の声」が響く。遠吠えする犬のように、朱々は天井を仰いだ。
 音が途切れるのと共に、振り下ろされる金槌のように朱々の頭が弘之の体に肉薄した。


 薄暗い洋間の中は、鉄錆のにおいが立ち込めていた。
 その中で、返り血にまみれた裸身の少女は、カーペットに座り込み、最後の肉片を口に運んだ。
 飲み込んで一息つくと、立ち上がってベッドの上に声をかける。
「刺激的だったでしょ?」
 薄闇の中、自身の血液と布の破片にうずもれた髑髏は、何も言わなかった。




<紅の宴 完>

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