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Pure White


 携帯電話が震えたので、僕は鞄からそいつを出して広げた。
 メールが一件。差出人欄には無機質な英字の羅列。知らないアドレスからだった。
 開くと、タイトルに見覚えのある文字列が並んでいた。
 僕は溜息をついて、一旦電話を閉じた。そして窓の外を見る。
 電車はタタムタタムと揺れながら、陸橋を渡る。まだ僕の降りる駅まで少しあった。
――あのお節介焼きめ。
 瞑目して僕は心の中でつぶやいた。あいつしか考えられない。
   タイトルの文字列は人の名前だった。
 忘れられない思い出がある、名前だった。

 まだ中学生で、毎日がただ何となく楽しかった頃の事だ。
 元気と発展途上の性をもてあました大多数の同性たちと同じく、僕は人を好きになった。
 好きになったけれど、僕は彼女を見ているだけだった。
 中学生の恋愛なんて多くがそんなもので、僕も今以上に臆病だったから動く事はしなかった。
 ただ、友達とバカな話をして、ふと彼女の方を見ると、彼女もまた僕の方を見ていた、なんて思う時がままあった。
 それは自意識過剰の産物で、決して彼女は僕に興味があったわけではない。今なら簡単にそう言えるけれど、あの頃の僕は本気で相思相愛になれると思っていたんだ。

 彼女の名前は“ユキ”と言って、その名の通り色白で全体的に小作りな印象の女の子だった。
 春になると溶けてしまう水の一形態と同じ読みの名前を付けた彼女の両親か、或いは近所の神社の神主か、ともかくそういう命名者に、僕はよくやったと言ってやりたい。
 流れるような黒髪は、茶髪全盛のこの世の中では「重い」なんて印象を周りに与えるようだけど、僕にはそれが清楚でいかにも大人しい彼女にマッチしているように思えた。
 雪解けの清流だ、なんてフレーズを思いついて5分で恥ずかしくなった。
 そうなのだ。彼女の印象は一言で言えば「水」だった。
 教室と言う砂漠で見つけた一つのオアシスが、彼女だった。そんな風に当時の僕は考えていた。もっとも、教室は砂漠ではなかったし、オアシスほど彼女は僕の体を潤してはくれなかったが。
 彼女はクラスを仕切るようなグループには属してはいなかった。取り立てて目立たず、教室の隅にある水たまり。実際の所、彼女のポジションはこうだったのではないか。
 自分から言う事はなかったが、そのような女子生徒たちを見る彼女の目は厳しかったように思う。
 実際にそれについて話したことは勿論なかったが、彼女の中のある種の「険」のようなものが時折向けられているのが、僕には見て取れた。それは注意深く観察しなければ分からないほどのもので、つまりは当時、それほど僕は彼女の事をよく見ていたのである。

 どこの世の中にも敏感なヤツはいて、それは僕の数少ない友達の中にも含まれている。
 そいつは隣のクラスのクセに、僕が彼女を好きになったことに誰よりも早く気が付いた。
 昼ご飯に誘われて、向かい合うなりそいつ、ケイは言った。
――お前、誰か好きな人できた?
 僕は一瞬逡巡したが、結局肯定した。この男は僕の友達の中では唯一の彼女もちで、そういった恋愛に関しては場数を踏んでいた。
 メアドを聞け。
 現代の恋愛の基本はこれに尽きる、と彼は言った。
 メアドは言うまでもなくメールアドレスで、それを受け取る端末は携帯電話。それが現代の常識。僕が中学生の頃も、既にそうだった。
 けれど非常識な僕は、当時携帯電話を持っていなかった。
 必要性を全く感じなかったのだ。その頃から僕は、友達が少なかった。
 大学生ともなった今は流石に持っているが、ほとんど使うことがない。最早いらない、とも言えるレベルだ。
 そしてメールが苦手である。すぐに返信するとか、絵文字顔文字を使うとか、そういう事が苦手だった。
 絵文字がないとキモイ、と今斜向かいに座っている男子高校生たちは言っていた。彼らは容姿的に、お世辞にも「さわやか」とか「かっこいい」とかそういうものとは縁遠いし、優先座席で携帯電話をいじるほどモラルのない手合いだ。が、そんな彼らでもよく知っている事を、今の僕も中学生の頃の僕もよく分かっていないのだった。

 メアドを聞けないのならば、話しかけろ。
 そんな僕に呆れることなく付き合ってくれるケイは、ラーメンにコショウを振りながらそう言った。
 けれど僕らには共通の話題がなかった。会話した事も、皆無と言っていい。
 何故なら一目惚れだからです。
 僕は当時、吐き気がするほど純粋だったようだ。
 一目惚れするような顔か、と男には配慮しないケイは言った。
 恋愛に客観性を持ちこんではいけない。そんな事言うヤツには、一発叩き込んでしまうべきだった。
 けれど、確かにそうかもしれない、と僕は思ってしまった。確かめたくなった。
 僕は教室に帰って、彼女の姿を探した。いつものように大人しそうな女の子3人を、自分の机の周りに集めて楽しくおしゃべりしていた。
 彼女の机の周りを友達が囲んでいるので、彼女の顔まったく見えない。
 仕方がないので、僕はまず、周りの女の子を観察する事にした。
 クラスで一番かわいいというサユリちゃんの友達は、明るく結構かわいい子がそろっている。大人しそうな女の子には、大人しい女子が集まってグループを作る。
 そういう風に、かわいい子にはかわいい友達が集まるものだと、その頃の僕は信じていた。
 因みに今の僕は、本当に自分のかわいさに自信がある子でなければ、そういう集め方はしないと知っている。自信のない子は、ちょっと劣るぐらいの子を横に連れている。コンビは二人合わせて百点満点だと聞いたことがあるが、それは悲しいかな正解なのだ。
 それは横に置いておいて、当時の僕の理論に照らし合わせると、僕の好きな彼女は客観的にあんまりかわいくない、という事になってしまった。(こんなことを思ってしまって、3人にはこの場を借りてお詫びしたいと思う。ごめんなさい)
 だがしかし、と大学生になった僕は思う。この「客観的に」という言葉は曲者だ。何をもって客観とするのか、誰が見てもおかしいとか、そういう事を言う人がいるけど、その「誰」はどこにいるのか。
 中学生だった僕にはそんな事は理解できなかったけれど、人垣の隙間からちらりと見えた彼女の顔は、誰よりも、そうあのサユリちゃんよりも、かわいく思えたのは確かだった。

 ケイは僕がこう言うと、鼻を鳴らした。
――付き合ってもいないのにノロケやがって。
 そして、僕の顔を覗き込み、からかうようにこう言った。
――いま、シアワセですかぁ?
 はい、シアワセですよぉ、と僕は答えた。
 片思いの内が花だぜ、と大人びた調子でケイは言った。
 そうかもしれないね、と僕は答えた。
――付き合えたら、『よかったね、はいおしまい』じゃない。
 知ってるよ、面倒くさいんだろ。
 大学生になった今なら、僕はすごくその事が分かる。面倒くさい。
 中学生のその時は、まあ、理論は知っていた。
 けれど『付き合う』ということに異様に焦がれていて、月並みな言い方でくくれば、恋に恋していた。
――もう、たくさんなんだよそんなのは。
 溜息をついて、ケイは机に突っ伏した。
 何故なら彼は、昨日自分の彼女と別れたばかりだったから。

 そんな僕だが一度だけ、ふられた女の子を慰めた事がある。もちろん、慰められたかどうかとか、役に立てたかどうかは別にすれば、だが。
 その子――アマノは割と目立つ方だった女子で、何の因果か知らないが、僕は彼女が告白に失敗した日に一緒の電車に乗り合わせたのだった。
 誰かに話を聞いて欲しかったのだろうが、よりにもよって僕に言うとは。冷静さを欠いているにも程がある、と今も当時も僕は思っている。
 まだ中学生なんだから焦る事はないよ、と僕は慰めた。かなり親父臭いセリフだと今でも思うが、当時の僕はそう考えていたようだ。
――じゃあなんで
 その彼女、ミズキは濡れた瞳で言った。涙は枯れたか、それとも人に見せたくないのか。判然とはしないが、それが彼女の頬を伝うことはなかった。
――学年に12組もカップルがいるの?
 そんなにいるのか、と僕は驚愕した。しかも、えらく具体的な数字である。後で知ったことだが、この数字は当時正確には11だったようだ。何故なら、かのデリカシーのないケイが、別れたばっかりだったから。
――その12組は、なんでもうシアワセなの?
 付き合えばシアワセってわけじゃない、と僕はあいつのセリフを繰り返した。
 それに、そのシアワセは永遠じゃない。最後まで行く、わけじゃない。
 アマノは、永遠じゃなくても彼が欲しい、と言った。
 僕はこの子は、恐いし騒がしいしであまり好きじゃなかった。でも、この言葉を聞いてそうでもなくなった。そこまで言える彼女が羨ましくもあり、反面そこまでの愛を受け止めるのは難しいだろうと、アマノに告白された野球部のピッチャーに同情した。
 そこでミズキの降りる駅についたので、話はおしまいになった。それ以降、中学生の間はほとんど話した事はないが、今も時々ちょっと惜しい事をした、なんて思っている。

 話題がない、とケイには言ったが、実は彼女と話したことはある。ただし、一度だけだが。
 シューティングゲームをイージーでクリアしたぜ、と言うような自慢にもならない、むしろ恥ずかしいような話だが、あえて僕は誇らしげに言う。
 何故なら彼女から話しかけてくれのだから。
――あの?
 そう声をかけられた時は本当にドキドキした。彼女と仲のいい3人組の、その中でも特に仲のいい小柄なメガネの女の子を後ろに連れて、僕を呼び止めたのだ。
 その時僕はトイレに行こうとしていたのだが、いっぺんに尿意は吹き飛んだ。いや、緊張で漏らしそうだったかもしれない。
――はい?
 僕はそう言って振り向いた。最低だ。同い年の女の子相手に「はい?」はない。
 せめて「何?」ぐらいは言うべきだ。
 彼女はそんな事気にも留めずに、僕の顔をまじまじと見上げた。ように思えた。
 頬は紅潮して少し照れた様子だった。のかもしれない。
 実は僕はよく覚えていない。緊張のあまり、何も見えていなかった。ただ、内心びくびくしながら次の言葉を待っていた気はする。
 そして彼女はおもむろに口を開いた。僕の視線は彼女の口内に集中し、そのまま吸い込まれてしまうかのように思えた。
 さあ、何と言うんだ?僕は震えながら待った。
――修学旅行の写真代、まだじゃない?
 ああ、何と言う事だ。僕は即金で払った。
 そう言えばそんな役目に就いていたな、と思いながら僕は彼女の背中を見送り、トイレに行った。
 唯一のロマンチックな思い出は80円。よく考えたら二日前に払っていたのだが、返金はなかった。

 最後の席替えで、彼女の後ろの席になった時、僕は運命を感じた。
 かわいいかわいい、今以上に青い少年だった僕なので、「運命」なんて言葉を軽々しく使う事を許して欲しい。
 ともかく、彼女と席が前後ろになった僕の心には、一つの思いが去来した。
「あの黒く長いつややかな髪を引っ張りたい」
 何故告白ではなくそういう方向に行くのか。今の僕にも理解できない。
 しかし、当時の僕には「それが恋をしている証拠なんだ」と思えた。理屈なんてどうでもよく、彼女の黒く長い髪の毛を引っ張りたくてたまらなかったのだ。ただ単に「触りたい」のではなく、「引っ張りたい」のだ。
 そうすると、どんな顔をするだろう。あの色白で小顔の、目が少し大きめの顔をしかめるのだろうか。それこそ雪原のような美しい額にしわを寄せ、少し太めの眉をさげるんだろうか。
 そうすると、どんな声を上げるだろう。初めは悲鳴を上げるんだろうか。彼女の声は少し高いから、結構響くのだろう。そして僕を非難するんだろうか。ちょっと泣きそうな声音で、やめてよとか言うんだろうか。
 そうすると、どんな目で僕を見るだろう。非難するような目だろうか。怯えたような目だろうか。それとも泣きそうな目だろうか。
 そこで僕は我に返った。
 嫌われるじゃないか。
 計画は断念。僕は思いのほか冷静、そんな少年だった。
 しかし、と僕は思い出した。
 一本だけ彼女の髪の毛を手に入れたのだ。雪解けの清流の、一滴を僕は手にしたのだった。
 音もなくそれは自然に抜け落ちて、僕の机に流れ込んできた。確か数学の時間だったと思う。僕はそれを取って、周りを少しうかがった後、筆箱の全然使っていないファスナーのついた物入れにしまったのだった。
 家に帰って、それを僕は指に巻きつけて見た。しなやかで柔らかく、うっとりと僕を熱くするそれを、大事にしまっておいた。

 僕の恋愛は片思いで終わった。平和だった中学生活ともに区切りがついた。
 そのお陰で、僕は彼女のことを今も忘れないでいられる。
 片思いに終わった事で、僕は永遠に彼女を閉じ込めていられるのだ。あの一本の髪の毛と違って、それは僕の心の中にあった。
 中学三年生の時の、彼女の後ろの席に今も僕は座っていて、あの小川のような黒髪が飛行機の座席の上から降りてくる酸素ボンベのように垂れ下がっているのだ。そして、それを僕は幾度となく引っ張っている。
 大学デビューだかなんだかでイメージチェンジして、あの欲求を押さえられなくなる黒髪を切り、尚且つ土を掘り返したような色に染めてしまい、あまつさえ他大学の男と付き合っているような今の彼女なんて、視界に入らないほどに、僕は当時の彼女を多分今も愛している。
 だからついさっき来た彼女――ユキからのメールも無視できてしまうのだった。
 恐らく例の他大学の男と別れ、ケイにでもアドレスを聞いたんだろう。大学は分かれた彼は、僕がユキと同じ大学に行ったせいか、未だに僕は彼女を好きだと思い込んでいるようだし。
 削除。親指一本で読まずに消した。

 陸橋を渡りきり、電車は徐々にスピードを落とす。やがて車内アナウンスが流れ、僕は顔をしかめて腰を上げた。
 電車を降りると、ホームの向こう側に夕陽が見えた。裸の立ち木は、枝を空に突き刺すかのように伸ばし、もう冬が来る事を教えてくれている。吐く息も白かった。
 今年も雪は降るのだろうか。いつか溶ける雪は降るのだろうか。

 愛情は永遠じゃない。それを、ミズキもケイは体を張って僕に示してくれた。
 だから、僕は告白しなかった。
 愛がいつか消えてしまうことが恐かったから、臆病になった。
 それは消失ではなく変化だ、とあの友達は高校になってから僕に言った。
 でもその言葉は遅かったんだ。早く僕らはそれに気付くべきだった。
 その時には既に、僕の心には雪が、あの頃の“ユキ”が積もっていて、それ以上入るスペースがなく、純粋な白に埋め尽くされていた。
 それはごく最近までそうだったが――
「遅いよ」
 改札口で僕を待っていたのは、あの時濡れた瞳で失恋に心を痛めていたミズキだった。
 今は大学生となり、僕のガールフレンドなんて、しょうもなくてたまらないような仕事を、文句も言わずにやっている。
「ごめん」
 素直にそう謝って僕は彼女の隣に並び、ニット帽からはみ出た、ミズキの黒い髪を撫でた。長くはないがすべすべしていて、いい香りがした。
 僕はアドレスを変える。永遠に白い雪が僕の心の底に、溶けずにあり続けるように。
 そしてこれから降る雨が、あの思い出を溶かしてしまわぬように。


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