図書室の入った、情報館と呼ばれる建物は、クラブボックスから程近い場所にある。 優歌は、情報館の奥に位置する生徒会室の前に置かれた机、その上の「ご自由におとり下さい」と張り紙のしてある書類ケースの中から、一枚のプリントを取り出し、備え付けのボールペンで、所定の欄を埋める。 A4サイズのプリントを四つ切にしたその紙片を折りたたんで胸ポケットに入れると、優歌は来た道を引き返した。 歩きながら、ふといつだったかの野川先生との会話が頭に甦る。 どんなクラブに入ったんだ? 彼は確かにあの時そう言った。顧問なのに、わたしが入部した事を知らないなんて。あの用紙には、顧問の判が必要だというのに。 少し考えれば、その謎はすぐに解けた。あの時点ではまだ、出されていなかったのだ。 優歌は胸に手をあてる。正確には、制服の内ポケットに入れた紙に、だ。上着の布地を通して、四角く折りたたんだそれの感触を確かめる。 クラブボックスの錆びた階段を上がり、一際たくさんの文字列が並ぶ鉄扉の前に立つ。 待っていてくれるだろうか。少し時間が掛かってしまったが。 初めて部室を訪ねたときと同じくらい緊張しながら、ドアノブに手をかける。 ノブは簡単に回った。恐る恐る押し開けて中をのぞくと、その人は確かにいた。 「どうしたの、入りなさいよ」 顔をこちらに向けて、彼女は言った。 「すいません部長、お待たせしました」 そう声を掛けながら、優歌は室内に入った。 「で、何? こんだけ待たせて大した用じゃなかったら、罰金百億万円よ」 「いえ、その、すいません……」 そう言いながら、優歌は内ポケットに入れた紙片を取り出す。 「これを渡したかったんです」 「何それ? 百億万円の小切手?」 「そんなわけないでしょ。て言うか、好きですね百億万円……」 先払いかと思っただけよ、と言いながら露子は紙片を開く。 「あ、これ……」 プリントを見て、露子は目を丸くする。 「入部届です」 そう優歌の字で記されていた。 「わたしの字で書いた入部届けを、出さなきゃなって」 この一ヶ月間、自由創作部の面々と色々な活動をやってきた。恥ずかしいことも、腹立たしいこともあった。しかし、不思議と嫌ではなかった。 そして今日、大鷺祭の責任者に選ばれた。改めて噛みしめると、ほの温かいような、照れくさいような、この五月の日差しと同じ匂いがした。 「わたしも自分で選ばないと」 一つの答えとして、自分自身の字で、裸の心で。 「そう……」 左の頬に描かれた小さな花が綻んだように見える、そんな笑顔を見せて露子はうなずいた。今まで彼女が見せてきた笑みのどれとも違う、まっさらな表情であった。 そして、自分の鞄から判子を出すと、その紙に押した。 「あんたの選択、確かに受け取ったわ」 「部長……」 この人はこんなに優しい表情ができるのか、と優歌は嘆息した。裸身の彼女の微笑みには妖しさや後ろ暗さはなく、むしろ柔らかい光のようだった。 「だからさ、手早く裸になりなさい」 温かな笑みから発せられた、絶対零度の一言。ぴしりと優歌は固まった。 「ふざけんなー!」 台無しである。 「な、何よー!」 彼女にしてみれば突然怒り出したように見えるのであろう、露子はたじろいでいる。 「どうして! あなたは! いつもいつも! そうなんですか!?」 「そ、それが一番大事だからよ」 区切り区切り、絞り出すように怒鳴って、肩で息をする優歌に、当惑した表情で露子は言った。 「ちょっと前まで、すごくきれいなお話で、まとまってたじゃないですか!」 「お話って……。じゃあ、現実がそういうものってことじゃないの?」 「その現実作ってんのが、部長じゃないですか!」 大きな溜息と共に、優歌はソファーに座る。 「何が不満なのか分からないけど……」 「全裸です」 間髪入れずに優歌は言った。露子は眼を見開いて、口を真一文字に結んだ。言うべき言葉を失ったようだ。どうやら「とりあえず裸になればいいじゃない」とでも続けるつもりだったようだ。 「二人きりなんだから、裸の一つや二ついいでしょ! 減るもんじゃないし!」 「わたしの中から大事なものが確実に減っていくんですよ!」 「大事な物をなくして人は大人になるのよ!」 「部長は色々なくしすぎです!」 どこかに頭のネジを十本ほど忘れて来たに違いない。 「大丈夫、恥ずかしいのは一瞬。すぐに快感へ変わるわ」 「危ない事言い出した!?」 「新しい世界を開くんでしょ?」 「そんな世界開きたくないですってぇ!」 悲鳴交じりの叫び。既に露子は腕を掴む段階から、後ろから抱きつくような格好へ移行している。右腕を優歌の胸に回して押さえつけ、左手はスカートのホックを探っている。 「あ、ちょ! スカートはダメ……」 「よいではないか、よいではないか」 「よかなーい!」 優歌がそう叫んだ時、部室のドアが開け放たれた。神崎が中に入ってきた。 「か、神崎先輩助けて!」 「ちょ、いいとこなんだから邪魔するんじゃないわよ」 「ええ、確かにお楽しみだったようね」 新たに響く声。神崎の後ろからエミリが姿を見せる。 「優歌くん、そういう趣味があったんだね」 あゆみも、エミリの背後からひょっこりと顔を見せる。 「え、何? 優歌ちゃん百合?」 「ふん、こんな公共の場で盛るとは恥を知るがいい」 松代と美咲の姿もあった。 「ちょ、ちが、違います! 違いますから!」 そこで、入ってきてから静観を決め込んでいた神崎がぼそりと言った。 「醜悪な……」 露子の右腕が緩む。その瞬間を優歌は逃さなかった。今までの十五年の生涯の中で、もっとも素早く体が反応した。 「このっ!」 首を前に倒して勢いをつけ、ハンマーよろしく後頭部を露子の顔に打ちつけたのである。 露子は悲鳴を上げ、手で鼻を押さえる。解放された優歌はさっとエミリの後ろに隠れた。 「先輩に頭突きするなんて、どういう了見よ!」 「後輩の服を脱がそうとするなんて、なんのつもりですか!」 「ボディペイントするつもりよ」 どこに威張る要素があるのか、露子は胸を反らす。ああ、もう話が通じない。 「ところで、みなさん……いつから?」 「『入りなさいよ』の辺りからかしら?」 「そうだね、その辺だったね」 「最初も最初じゃないですか!」 助けてくださいよ、と優歌は顔を真っ赤にする。 「優歌ちゃんもその気だと思ったから、入るのがはばかられて」 「大惨事同士など、勝手にやっていればよかろう」 「いやいや、女子同士の絡み、俺はありだと思うぜ! 相手が全裸部長なのは残念すぎるがな」 「ないですよ!」 無駄に爽やかな表情で親指を立てる松代に、優歌は怒鳴り返した。 「マッツがそう言うなら、私はあゆみ卿と……」 「これはわたしのよ」 何かにやる気を出そうとする美咲から庇うように、エミリはあゆみをその背に隠す。 「みんなもこう言ってるし、やるでしょ?」 「拒否します!」 露子は、強く優歌に言われてうなだれた。 「そう……」 小さく溜息をついて、露子は顔を上げる。 「初心者には、少しハードルが高かったかもね」 「上級者がどれくらいの変態を指すのかは知りませんが、そういう問題じゃないです」 「分かったわ」 満面の笑みを作って、露子は言った。 「じゃあ、全裸だけでいいから」 「だから全裸が嫌だって言ってんだろ!」 優歌の叫びが、部室の壁にこだました。 |