act.20 紫は胎動する 家の前で、あたしは足を止めた。佐藤が何でクロに探されているのかを道々考えていたが、それがいっぺんに吹き飛んでしまった。 ガレージに、車が止めてあった。世帯主がいつも通勤で使っている車が。 早引けか?この時期に?何で?それは分からないが、帰っている事は確かなようだ。 何故か、自分の部屋に目がいった。窓もカーテン閉まっている。その下のひさしが、いつも兄貴が立っている場所だ。なんてバランスの悪いところにいつも立ってるんだ。 変だ。すごく、変だ。いつも目が行かない所に目が行っている。中に入りたくない。世帯主がいるから、とかそういう事じゃなくて純粋に入りたくない。 首の後ろがチリチリする。おなかの辺りがキュッと冷えた。何故か「小学校」という言葉が不意に頭に浮かんだ。学校に行きたくなかったあの時と、同種でもっと強い感情が湧き上がっていた。 けれど、入らなくてはいけない。あの時、それでも笑顔で学校に行ったように。悲しいけれど今の所、あたしの帰るべき場所はここにしかないのだ。 意を決してライオンの口から垂れ下がった輪を握り、ひねってセコムのシールが貼られた門扉を押し開く。玄関の飛び石を歩き、戸口に立った。 これだけの動作で、背中は汗びっしょりである。夏の日差しの下でかく汗とは全く異質な液体が分泌されていた。 とにかく入ろう、何にビビッてるんだ? それは分からない。分からないが、この扉の向うから漂ってくる異様な静けさはなんだ。音がしない、という事ではない。人の気配が感じられないのだ。動く物は一切ない感じ。あの夜に佐藤葵と忍び込んだ小学校すら、ここに比べればもっと生き生きとした場所に思えてくる。 喉の奥のチリチリした感覚を無理矢理飲み下し、あたしは玄関のドアを開けた。 中はシンとしていた。廊下は電灯が点いておらず、暗かった。吐く息が白い気がした。たたきには、世帯主の高そうな靴が乱暴に脱ぎ捨ててあった。 奥をよく見ると、居間のドアが開いていた。耳をすませばエアコンの低くうなる音が聞こえる。少し寒いのはそのせいか。なんて横着な。あたしが幼稚園の頃、ドアを開けっ放しで出て行ったら、鼓膜が破れるかと思うような声で怒鳴ったくせに。 あたしは靴を脱いで廊下に踏み出した。邪魔な世帯主の靴はそっと横によけておいた。 一歩一歩、慎重に踏み出す。足音がしないように。何でだろう?ここはあたしが帰ってくる為の所なのに。何でこんなにも警戒しなくちゃならないんだ。 それはあの圧迫感のせいだ。玄関の戸の向うからひしひしと伝わってきていた、あのプレッシャーのせいだ。歩みを進めるごとに、強くなってきている。吐き気のする匂いもする。濃厚な鉄の臭い。オリモノの処理ぐらいちゃんとしろ。いや、違うか。違う、異質だ。あれよりももっと嫌な、突き上げてくるような臭いだ。 あたしはそっと居間の中をのぞきこんだ。中は暗かった。世帯主が立っている。足元に、誰か倒れていた。 それはどちらかと言うと物だった。薄暗いせいかもしれないが、そう見えた。ピクリともしないし。 けれど、よく見るとやっぱり人間だった。 女だった。 頭が、なかった。首が少しと血だまりしか、なかった。 知っている後ろ姿だった。蹴り転がしたくなる背中――中年女だ。 何で、倒れてるんだ?何で、動かないんだ? もしかして、もしかして……死? ヤバイヤバイヤバイヤバイ。夫婦仲が悪くなってるから。夫婦喧嘩。勢い余ってサクッと。ありえる。ありえるぞ、それ!! ボトッと音がした。何が落ちた?ああ、あたしの鞄か。鞄。右手に持ってた鞄。何で今日に限って持っていったんだろうこの鞄。買い物するからだ。そうそう、したし買い物。タダになったけど。結局鞄に入れてないけど。 物音に気がついて、ギギギッと世帯主が顔を上げた。実際にそんな音がしたわけじゃないが、古い玩具が動いた時のような感じがしたのだ。暗くて表情はよく見えない。見えないが、少なくとも笑ってはいなかった。 手には何かを持っていた。ボールのようなものをぶら下げていた。それが人間の頭だと分かった時、あたしは声にならない悲鳴を上げた。 「咲、か……」 低く、世帯主は言った。そして数秒自分の足元を見下ろし、また顔を上げた。 「どうした?何で入ってこないんだ?」 入れるかバカヤロウ。何でそうどこまでもバカなんだこの医者は。 「そ……れ……し……」 死体だよ、死体!ピアノ教室かここは!!しゃっきりしろ、高村咲!!けれど、どんなに心の中で叱咤しても手の震えは止まらなかった。 「どうした?クーラーもきいているぞ、暑かっただろう……」 いいや寒いね、肌寒い。と言うか、答えろ。その死体、どうしたんだ!! 「うん?どうした?お父さんの言う事が聞けないのか?こっちに来なさい咲、ほら……」 世帯主がこちらに一歩踏み出そうとして、中年女の体につまずきかけた。 「ちっ、どこまでも邪魔な女だ……」 世帯主はそう呟いて、中年女を蹴り転がした。そうされても、その物体は何も言わなかった。ピクリとも動かなかった。物体は物体だった。人間ではなかった。 そして、蹴った方も人間ではなかった。あたしにはそう見えた。薄い暗がりの中、生首を放り出し、近付いてくる世帯主は見た事はないが、正に悪魔だった。悪魔が現実にいればこんな感じだろう、と示せるぐらいに。 「う、ああああああぁぁぁぁあぁぁあ!!!」 夢中で叫んで、足元の鞄を蹴飛ばしてて階段の方に走る。振り向きなどしない。鞄がちょうど顔に当たったらしく、舌打ちをして何かを怒鳴っていたが、知るか。あたしは、人間で日本語を話すヤツ以外とはコミュニケーションを取れないんだ。 階段を駆け上がる。それはもう比喩でも何でもなくマッハの速さで。後ろで待てー、とか叫んでいる。追ってきている。殺す気か?殺す気だ!! 何なんだ今日は!?人外によく絡まれる日だ!あたしが何をした!?ああ、色々したなそう言えば……。 転がるように二階の廊下を駆ける……って、何やってんだ自分!!何で自室にこもろうとしないんだ!!あっちだったら、窓から庭に出られるのに!!引き返そうにも、もう後ろに世帯主は迫っている。足音と叫び声が近い。無理。ダメ。ヤバイ。 何とか中年女と世帯主の部屋に転がり込む。だが、ここは安息の地じゃない。逃げ場がない。追い詰められた。 「どうしたんだ、咲……?」 うわアレもう来たよ……。ふすまで仕切られた隣の寝室には大き目の窓があるが、この世帯主の書斎にはない。明り取りの小窓からじゃ、さすがに出られない。追い詰められた? いや、まだだ。とにかく寝室の方に逃げよう。体が止まる?腕をつかまれた。そして、いやぁぁぁぁとか何とか叫ぶ間もなくタンスの側面に追い詰められる。両腕を押さえつけて、世帯主はあたしに顔を近づけた。 「何で逃げるんだ、咲……?」 息が臭い。体が薬臭い。でも、振りほどけない。さっきの文房具屋のように助けてくれる人もいない。 「お前も緑みたいに、私に逆らうのか?」 緑って誰だ?ああそうだ、中年女の名前だった。旧姓大橋。大橋緑。実は33歳で中年と呼ぶにはまだ早い年齢。認めたくないけど、本当は、本当は……。 「し、死……だ……の?」 「ああ。緑はな、お前の行っていた塾の塾長と不倫していたんでなぁ……ちょいっと首を落としてやった」 ふりん?ああ不倫か。あの場末のホストと。そうか、そう言えば同級生とか言ってたな。ああ、そうか。それで殺したか。殺したか。死なせたか。あの大橋緑も塾長の物になったから殺しましたかそうですか。 「だがお前は、違うよなさきぃぃ?お前は、私の物だよなぁぁ?」 それこそ違う。あたしはお前の物じゃない!!あたしの何をも、支配していないくせに!! そう思っても、叫べない。空気が足りない。ツバが足りない。口の中がカラカラで、何の音も出やしない。手足をばたつかせるしか出来ない。 「んんー?何だ、お父さんの言う事を聞けないのか?」 ねちっこい口調でそう言うと、世帯主――いや、殺人犯は、あたしの頬を乱暴に張った。なんて勢いだ。叩かれた勢いで仏壇にぶつかった。頭がくらくらして泣きたくなった。お鈴を叩く棒が転げ落ちる。 「そういう子には、おしおきだ」 殺人犯が飛び掛ってくる。あたしも起き上がって応戦したいところだが、どうも体が痛くて無理。このまま死ぬ?死ぬ?殺される? 組み伏せられそうになるのを必死で抵抗する。ヤツの右腕を両の手で押しとどめる。右腕だけ?左は?左腕は、あたしの下半身に伸びていた。 何てヤツだ!!あたしは認めたくなくても、お前の種から生まれたんだぞ!! 「何で暴れる?何で暴れるんだァア!?」 後妻を殺した後、前妻の仏壇の前で、自分の娘を犯そうとしている男。凄まじい錯乱っぷりだ。やっぱりお前は、父親とかそういうものじゃない。同じ空間にいるだけの赤の他人だ。あの大橋緑よりも、よっぽど他人だ。 いやむしろ、異物だ。完全なエイリアンだ。このクソ外道が! 左腕がショーツを引き裂こうと伸びてきた。足をばたつかせて抵抗する。また右手で顔を張られた。目の前を星が散る。涙が散ってカーペットに落ちた。 殺人犯はあたしの足の上に尻を乗せ、足を押さえつけた。必死に抜けようと腰を振るが、何かがポケットから転げ落ちただけだった。 そして、首に手を伸ばしてくる。口の端に泡を吹きながら、何かをブツブツ呟いている。あたしの両腕は心の諦念を表すかのように、だらりと垂れ下がっていた。指一本動かす気にもなれない。 「思い通りに、ならないなら、咲、お前も、お前も、緑と同じだ……」 首に段々と力が込められてくる。あたしが哀願し、股を開くのを待っているのか?それは嫌だ。なら、死ぬしかないか。このまま落ちていくしかないのか。 さっき落とした、あれは何だったんだろう?ああ、そうだあのシャーペンか。安い100円の、ピンク色をした、今日買ってきたあのシャーペンだ。その昔、鈴木茜が自らの価値を再規定する為にすがった品だ。 あれは彼女の抵抗だった。些細な馬鹿げた幼稚で無意味な抵抗だった。そして、無価値な時代を暫く生きた後、彼女はやっぱり無闇に命を散らした。 どうした高村咲?お前は抵抗をやめるのか?運命がそちらに流れているとでも言うのか?お前の扉は破滅にしか通じていないのか? そんな事知らない。分からない。 分からないからこそ、あの夜の佐藤葵はドアを叩いたのだ。あれも抵抗なのだ。開いているという運命への可能性を試したんだ。 今度はあたしがドアを叩く番か?そうした二人の友達はどうなった?一人は自分の規定を見失い、もう一人は他者を規定しあぐねているじゃないか。そうだ、抵抗は辛いのだ。 そのままの方が楽だから。日常に混沌が足りなくても、それが大いに不満でも、秩序に従うのはその為だ。ピラミッドの最底辺でドロドロしていたくなるのもそのせいだ。 だが到底許容し得ない秩序、それが来たならば、あたしは抵抗を選ぶ。そんな秩序など、あたしの混沌が飲み込んでやる。 それが今じゃないか。 右手でカーペットの上を探る。そろそろ酸素が足りないわぁ。くらくらする。下半身の何かが緩む。ダメじゃないか?いや、ある、あった。さっき落としたシャーペン。100円のピンクのシャーペンで、あたしは未来を開く。 見ててくれ、鈴木茜。 あたしはシャーペンをノックし、芯を出して殺人犯の左の手の甲に思いっきり突き刺した。 今わの際の力かそれは見事に刺さり、壮絶な悲鳴を上げて殺人犯は腕を離した。 この瞬間、これしかない。あたしは殺人犯を押しのけて、かつて夫婦だった二人が使っていた寝室に転がり込む。 窓。そう、窓がある。この部屋には、あたしの体も通れそうな窓がある。ここから落ちても死なないだろう。足を折っても、殺人犯に何か―― 体が飛んだ。冗談じゃなく、紙のように飛んだ。床の間の横の柱にぶつかった。頭がガンガンする。ブンブンもボンボンもする。気絶しないのが不思議なくらいにハイだ。 痛みをこらえて目を開けると、寝室の入り口に殺人犯が立っていた。あいつが突き飛ばしたのか。当たり前か。他に誰がいるんだ。 荒い息を吐くあたしを見て、殺人犯はサディステックな笑みを浮かべた。そう見えた。左手の甲を撫でながら、ゆっくりと近付いてくる。 もう武器は無い。あたしの人生もここまでだ。ノックはしたが、ドアは開いてなかった。帰ろうか、佐藤。死ねなかったな、鈴木。また今度にしような。 それでも左手を動かして、床の間を探る。また今度は無いんだ。だからこそ、鈴木茜は帰ってこないし、佐藤葵と友達になったんだ。 何かをつかんだ。皿だ。赤い絵柄の付いたお高い皿。あたしはそれを持ち上げようとした。だが、重い。落とした。割れた。割れただけだった。無駄に割れただけ。 だが破片だ、無駄じゃない。破片を拾えばいい。最後の気力を振り絞って、床の間の前に這いずる。背後に殺人犯が迫る。もうダメか?いや―― その時やっと、破片よりもっと魅力的な武器に気が付いたのだ。 |