act.19 最後の唄


 儀式は単純である。別に他の客の鞄に商品を入れる必要もない。ただ、彼女が万引きしたのと同じ、PILOTのピンクのシャープペンシルを買うだけである。お会計105円也。何と安上がりか!
 けれど、その安さを改めて見ると胸が苦しくなる。彼女は、万引きなんて安っぽい窃盗にすがるしかなかったのかと。尚且つそれで盗ったのがこの程度だったのかと。
 そんな思いに陶酔しながらシャーペンをながめていると、突然肩を叩かれた。驚いて振り向くと、どこかで見た事のある男が立っていた。
「きみきみ」
 胸元に「水嶋書房」とロゴの入ったエプロンを着た男――つまりは店員なのだが――は高圧的な口調で言う。
「そのシャーペン、どうする気だ?」
 そう言われてあたしは手に取ったピンクのシャーペンを見る。どうする気だ、も何も今日は買うつもりだが何か?
「あ……買います……」
「そうじゃないだろ!」
 突然その店員は怒鳴った。そうじゃなかったら何だと言う気だ。万引き?ああ、それあたしはしないけどな。するのは――そう、その向うの棚の所を歩いている小学生とかじゃね?もしアレの事を言ってるんだったら……まあ、何とでも言い逃れできる。
「僕は知ってるんだぞ!!」
 上からニラみつけながら店員は言う。え、しかも僕?うわ、マジダサいこいつ。息かけんな臭い。チカンですって叫ぶぞコラ。
「お前、べ、別の客の鞄にこ、こういうのこっそり入れてるだろ!!」
 何でこいつそんなの知ってんの、と思った瞬間ガッと両肩をつかまれた。
「ぃぃいい加減にしろよ!!僕は知ってるんだ!!見たんだ!み、みみんな信じないけど、僕は、僕は!!!」
 怒鳴りながら顔を近づけてくる。視界が尋常じゃなくつば臭い。何言ってんだこいつテンパりやがって。あーもうツバ飛ばすな、顔近づけんな臭いから。
 振りほどこうとあたしは暴れた。でも、このおっさん力が見かけより強い。叫ぼうにも声が出ない。何故か、出ない。助けて、誰か。ああ、そうだ佐藤葵とか。あいつなんでこんな時に近くにいないんだ学級委員長のクセに。兄貴をチカンと間違えてる暇があったら……
「何やってんスか」
 そう声がした次の瞬間、おっさんは引き剥がされて、清浄な視界と空気があたしの周りに戻ってくる。よかった、あと数秒引き剥がされるのが遅かったら、あたしもテンパって叫びだす所だった。
 ほう、と溜息をついて顔を上げると、水嶋書房のエプロンを着た背の高い青年が、おっさんを羽交い絞めにしていた。
「あああぁぁああぁぁ、こいつがこいつが……!」
「はいはいはいはい、そうッスね」
 なだめすかすと言うか流しすかしながら、もう一人の店員はおっさんを引っ張っていく。何なんだあいつは全く。
「君大丈夫?」
 後ろから声を掛けられて振り向くと、女の人が不安げな面持ちで立っていた。彼女もやっぱりこの店のエプロンを着ていた。
「は、はい……」
「そう……。ごめんね、あの人ちょっとおかしいのよ」
 そんなモンを放っておくなよ。あたしは心の中で呟いた。
「この店の万引きの大半は、女の子が他のお客さんの鞄に商品を入れて警報機鳴らして遊んでるんじゃないか、とかいきなり言い出してさ」
「は、はあ……」
 とんでもない事言いやがる。もろあたしじゃねーか。適当に相槌を打ったその背中では、冷や汗をだらだらかいていた。他の客の視線があるのも痛い。逃げ出したかった。
「それで、女子高生ぐらいの子が来るたびに『あの子だあの子だ』で騒ぎ出すのよ。でも、今日はやりすぎね。飛び掛られたのは君が初めて。ま、流石にクビかしらね?」
 お姉さんは冷ややかな目でスタッフルームに連行されていくおっさんを見ながら言った。そして、あたしの方に視線を戻し、それ買うの?とピンクのシャーペンを指した。
 あたしがうなずくと彼女は、お詫びにそれタダにしたげるわねと笑った。

 帰り際、一度振り返るとお姉さんが手を振ってくれた。あたしも小さく手を振って、もうここにはこられないな、と思った。店で顔を覚えられるのは嫌なのだ。やっぱりどこでも空気がいい。
 それにしてもあのおっさん。あんな精神的に不安定な人が、どういう理由であそこで働いていたのかは知らないが、なかなか鋭いじゃないか。存外に、ああいった人の方が本質を見抜くのかもしれない。


「高村さん?」
 店から出際に後ろから声をかけられる。聞きなれない声だ。あの佐藤葵のようでもあり、そうでもないような気がする。
 振り返ると見覚えがあるんだかないんだか分からない、長身の女が立っていた。結構ゴツい感じの体躯をジャージで包み、いかにもスポーツやってます的な精悍さが溢れかえっている。あまりに溢れていてジンマシンが出そうなくらいだ。
「あ、えーと……」
「黒川よ。去年同じクラスだった……」
「ああ」
 もちろん、覚えていない。と言うかそんな有象無象の名前までおぼえてるわけないだろ。去年で覚えていると言うとそうだな……ああ、担任の名前すら出てこないわ。
「あ、あのさ」
 辺りを少し見回してうかがうと、スッと間合いを詰めて来た。近い近い。しかも香水か何かと汗の臭いが混じって、臭い臭い。さっきのオッサンと言い、異臭テロか?
「佐藤……佐藤葵さんって知ってる?」
「はあ。同じクラスだけど……」
 知ってると言うかなんと言うか。うちの学級委員長だし。て言うかそれ以上?付き合いあるし。これ異常だな、あたしとしては。
「見かけなかった?」
「いえ……」
 かくれんぼか?もしかして、かくれんぼでもしてるのか?じゃあこの黒川はかくれんぼ部か。新しく作って佐藤も入った、とか?全国大会あるらしいし、舐めちゃいけない競技ですよアレは。
「そう……。ごめんね」
 溜息を一つつくと、黒川はあたしに背を向けて歩いて行ってしまった。何かあったのか?まさか、自殺しますとか書いてどっか行ったんじゃないだろうな?あのバカ、遺書はあたしが持ってるってのに……。
 そうだ、遺書はあたしが持ってるじゃないか。それはない。さすがに、あのバカがどれだけバカでも、ない。
 多分かくれんぼだ、そうに違いない。あのゴツくて臭い黒川と……って、黒川ってもしかして……!
 お盆前の、あの踊る踊る休日が頭に甦る。夜の小学校で見た名前、あれには「クロ」と書いてあった。クロ……、黒川……!?
 歩きさる彼女の背中には「×××high school Vallyball club」という文字が踊っていた。
 あいつが、佐藤の昔の友達で今の……いじめの元凶、なんだろうか。あたしには、とてもそうは思えなかった。あの女が「佐藤」と口にする時、いやらしい感じは全くしなかった。
 ただ、少し悲しそうに見えるだけで。



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