act.18 眠りにつく前に


 九月が近付くにつれ、セミの死骸が道路に目立つようになってきた。その事を気に止める人は多いのに、鈴木茜が死んだ事を知っている人は少ない。予備校でも言われてないから当たり前だけど。小さい噂は流れているようだが、みんな自分の勉強で忙しい。
 彼女の家庭がどういう反応をしたかは知らない。お通夜も葬式も、残念だけど行かなかったし。香典とか喪服とか、色々ややこしいし。それ以上に世帯主とか中年女が煩わしいし。
 結局あたしは遺書を受け取っただけで何にもしていない。何にも変わらない日を生きている。人が一人死んでも、世の中は大して変わらないんだ。当たり前の事だけど、あたしはそれを心の底から実感するのだった。


「高村さーん、ちょっといいかしらー?」
 塾を出ようとするあたしに、例のほわほわ事務員が話しかけてくる。この女、白石博美という名前で、やたらにあたしに話しかけてくるが、それ以上は未だもって謎だった。まあ、知りたくもないが。
「何ですか?」
 こっち来て、と手招きされて、入塾の時に場末のホストと中年女と三者面談をしたブースに連れて行かれる。その場末のホストの姿は、ブースのすぐ傍にあるカウンターに囲まれた講師のスペースには見当たらなかった。今日は学校周りとやらで休みらしい。
「鈴木さんのこと、なんだけどー」
 向かいに座った事務員は、いつもの柔らかすぎてトロ過ぎて吐き気のする口調でそう切り出した。遂にきたか。来るべきしてきたな。にしたってえらくタイムラグがあったな。それはこの女の入力と出力の速度のせいのかもしれない。場末のホストのようなあの教室長からはもっと前に尋ねるようにと言われていて、今やっとその命令を果たしているとか、いかにもこのほわほわならありそうな話だ。
「はあ?」
「何か、知らないー?」
 おいおいおい、この聞き方はどうなんだ。あたしが鈴木茜が自殺した事を知っているからいいようなものの、全く知らなかったらかなり問題ありだ。いやむしろ、知っていると確信しているからこその聞き方なのか。この女は計り知れないからな、本当に。
「何か、って何についてですか?」
 だからここで食いついてはいけない。グググッとこらえてとりあえず惚けよう。ここは学習塾、言わば受験のプレ戦場、周りはみんな敵だ!そう事務員でさえも……なんちゃって。
「死んじゃったじゃなーい彼女」
「はあ、そうなんですか」
「悲しくなーい?」
「いえ……」
 ウソだ。本当は悲しかったよ、鈴木茜。でも今は少し我慢してくれ、分かってくれるだろう?この女が敵か味方かは分からない、というか十中八九敵だから。
「仲良かったんでしょー?」
「……それなりに」
 ここはひとまずの肯定。カマをかけている可能性もあるが、ハンネで会ってるところを目撃されているのかもしれない。鈴木茜のプロフィールから、あたしと前の学校で一緒だったことからの推測という線もある。下手に否定するよりは、ここは正直に話した方がいい。
「そうなんですか、って酷くなーい?」
 少し機嫌が悪くなる。眉をひそめて事務員は座りなおした。
「そうですね、反省します。ちょっと、びっくりしちゃって……」
 うつむいて演技演技。そう言っときゃ大抵は大丈夫。ああ、あたし役者になれるわ。
「ウソ」
 だがその稀代の名演を、すっぱりと事務員は一言で切り捨てた。いつになく聞き取りやすい常人並みのペースの彼女の口調に驚いて、あたしは思わず顔を上げた。
  「知ってたでしょ?」
 あたしはちらり、と玄関ホールの方を横目でうかがった。生徒はあらかた帰ったようだった。ついで、眉間にしわを少しだけ寄せている白石の後ろにいる講師たちの様子をうかがった。大丈夫、衝立のお陰でまずあたしとこいつがここにいる事にすら気付いていないみたいだ。
「はい」
 素直に肯定することにした。同時に頭の中で言い訳を組み立てる。本当言うとこんな事務員なんぞ知るか、とぶん殴りたい所なのだが、そこはググググッと我慢我慢。
「でも、まだあんまり受け入れられなくて……」
 言葉にすれば本当になってしまいそうで嫌だったんです、みたいなニュアンスの言葉を継ごうとした時、事務員はまたもや切り捨てた。
「ウソ」
 そりゃ確かにウソだけどさ。そんなに聞きたいか、彼女の死んだ理由。でも彼女は死ぬ事でその理由を示したんだから、解釈を求めるのは野暮ってものじゃないか。誰も理解できないから無駄な死でした、とはあたしは思わない。
「ウソじゃないですよ、どうしてそんな事……」
「塾がね」
 あたしの被害者風の言葉を遮って、白石は言った。
「悪いんじゃないかって、そうみんなー、思ってるの」
 馬鹿げた話だベンジャミン。笑い飛ばせそんなもん。それともあたしが笑ってやろうか?この塾にそれほどの力があるか?答えはNOだ。自意識過剰にも程がある。ここ程度の宿題や授業なんかで、あの鈴木茜が、学年一位だった鈴木茜が、今も優秀であんなに綺麗にノートを取る鈴木茜が、追い詰められる筈がない。
「彼女ねー、勉強は出来たんだけどー、やっぱりその友達とかー、生活面がねー……」
 そんなもん彼女は要らないだろう。大体矛盾してないか?あたしと鈴木茜が仲良かったんでしょと言っときながら友達がいなかったなんて。そりゃ彼女はあたしを友達と思ってなかったかもしれないし、あたしもどっちかと言うと友情とは別の意味で接していたかもしれない。だけど、そういう関わりって言うのが世間一般で言う友達なんじゃないのか?これはあたしが間違ってるのか?
「知ってるかどうか分からないけど、鈴木さん転校する時にねー、色々あったのよー」
 万引きの話だろう。よく知ってる、本当によく知っている。何故ならあたしはあの場にいたんだから。
「だからさー、学校でもなんか構えちゃっててー、あんまり友達いないとか何とか。だから余計に塾にね、力入れすぎたんじゃないかってー」
 それは違う。彼女はそれこそサーカスの少年のようにたくさんの芸を覚えなくてはいけなかったからこそ、馬車馬のように勉強する事になったんだ。勉強しなくちゃいけないから周りを排除したんじゃない。勉強しかしてこなかったから周りが遠かったんだ。
「ただでさえー、教室長にはあの事があるのに……」
 あの事?なんだそれは。あの場末のホストは何か問題を抱えているのか?  あたしの訝しげな視線に気付いたのか、白石はハッとしたように大きく目を見開き、そしてすぐに元の眠そうな顔に戻った。
「じゃあ、まあ、何かあったんならさ、気が向いたらでいいからー、教えてね?」
「はい」
 即答してあたしは席を立つ。教える気なんてさらさらないが、そう言わないと逃げられない。あの事とやらは少し気になったが……まあロクでもない、どうでもいい事なんだろう。あたしには全く関係ない。
「あ、ごめん、ちょっと待ってくれる?」
 立つ前に言え!あたしは内心舌打ちをして、また座った。生暖かい。さっきまでの自分の体温だ。そう分かっているのに、何故かよそよそしくて気持ち悪かった。
「高村さん、お兄さんいるよね?」
 はい?まったくワケが分かりません。本気で頭のねじがぶっ飛んだか?何だこの脈絡のなさは。ねじ落ちてないか探してあげようか?それとも、初めから入ってない不良品だったっけ?
 あたしがそんな事を考えていて返事をしないでいると、事務員は兄貴の名前を言った。名簿でも見たか?と思ったが、更に彼が通っていた高校の名前まで正確に言ったのだ。まあ、この事は実際そんなに驚くべき事じゃない。あたしも同じ高校に行っているのだから。問題は、この事務員が兄貴が中退した事まで知っている、と言うことだ。
「当たってるでしょー?」
「はあ」
 うふふふふ、と事務員は楽しそうに笑う。楽しそう?いやどうだろう。何となく影があるようにも見えるが、照明のせいかもしれない。
「彼、元気?」
 何でお前に兄貴の体調が関係あるんだ。それを先に言えよ。オブラートに包んで優しく同じ内容を問いかけると、事務員はまた笑った。
「わたしもねー、同じ高校通ってたのよー。当時は高三だったかなー?それでねー、面識あるのー」
 はあそうなんですか、としか言えなかった。とりあえずそう言っておいて、一応元気にアルバイトしてますと言っておいた。
「アルバイト?」
 初めて聞く耳慣れない言葉のように、白石事務員はオウム返しに言った。
 そして彼女はしばらく黙った。何だよ。帰っていい?いいよね?答えは聞いてない。などと思いつつも秒針が何週かするのを見ながら、暇乞いをするタイミングを計った。
 結局三周してから、事務員はありがとう、と言って席を立った。ようやく帰れる。何の集まりだったんだこれは。
 それよりも、一つ約束を果たさないと。
「あの」
「んー?」
 欠伸のような声で返事をした白石に、あたしは言った。これは、これだけは言わなくては。何があったとしても。だって彼女の遺志だから。
「鈴木さん、とても自殺するようには見えませんでしたよ」


 午前一時。もうそろそろおねむの時間である。夏休みももう残りわずかなのだから、そろそろ吐き気のするような規則正しい生活に戻らねば。混沌の深夜をうろうろするのも、そろそろ終わりだ悲しいね。
 こんこんこん、と控えめに窓が叩かれる。心霊現象ではないから「ババサレ、ババサレ」なんて言っても仕方ない。はいはい開けますよ。
 あたしは鈴木茜の遺書を封筒にしまい、引き出しを開けて佐藤葵の遺書に重ねる。この二つの違いは、持ち主が死んでいるか生きているか。そう思うと悲しくなる。
 まあそんな事を今更考えても仕方ないので、引き出しを閉めて鍵を掛けた。封印。多分、明日も見るけど一時的に封印。欝な気分も持ってけ。
 窓を開けると、いつものように兄貴が左手に靴をぶらさげて立っていた。右手は窓のサンを掴んでいる。おかえり、と言うとやっぱりいつものようにただいま、と小さく言った。そして入って来た窓を自分で閉める。
 昼間の白石とのやり取りを思い出す。呼び止めて聞いてみようか、どうしようか。そんな事を考えていると、兄貴はいつもならそのまま通り抜けて行くのだが、今夜は何故かベッドに座った。
「咲、ちょっと聞いてくれないか」
 兄貴は手招きして、自分の隣を指した。あたしは椅子から立ち上がってその隣に座る。そのまま抱き寄せられて、キャー禁断の関係……とはならない。多分。
「あのさ」
 あたしが座ったのを見届けて、彼は口を開いた。兄貴は慎重に言葉を選んでいるようだった。目が空を彷徨っている。
「最近父さんと義母さんがうまくいってないって知ってた?」
「うん、何となく」
 仲が悪いかどうかは知ったこっちゃない。けれど、不機嫌なのは感じていた。多分、あのお盆に一緒に出かけた日からだ。
「で、聞きたいんだけど」
 真面目な顔で兄貴はあたしの顔を覗き込んだ。
「離婚、って事になったらお前どっちについて行く?」
 どっちにもついて行かない。
 そう即答できたらどんなに楽か。だが、現実にその楽な道は提示されていない。兄貴の瞳に映る「わたし」は決してそんな事を言わないから。
 では、何と答えればいい?世帯主か?中年女か?
 どちらかを選ぶと言う事は、どちらかを切り捨てると言う事だ。
 どちらかを切り捨てると言う事は、どちらかが嫌いと言う事だ。
 選べないじゃないか。どちらも一様に好きな咲ちゃんが、「わたし」に求められている役割なのに。丸く収める必殺技なのに。吐き気がするほど正しい態度なのに。
「お兄ちゃんは、どうするの?」
 ならばこうして質問を質問で返すしかない。0点だけど仕方ない。
「俺は……独り立ちするよ。ルームシェアとかして、何とかやってみようと思う」
 ああ、そう言えばそんな事を前に聞いた気がする。だけど、ビジョンが甘いな。あたしが言うのもなんだけど、甘い。高校中退のフリーター、生活できるのかよ。
 だが、ここに突破口を見つけた。からかいすぎて気まずくなった時に「ウソだよ」「冗談だって」と言って場を無理矢理に丸め込むのと同じやり口を。
「じゃあ、わたしはお兄ちゃんについて行こうかな」
 兄貴は笑った。
その笑顔を見てあたしは、小学校六年の頃にこの兄がご飯を作ってくれていたのを思い出した。母が死んでからそれまで家事をやってくれていた祖母が、体調を崩して同居出来なくなっ為だ。
 中学二年のガキンチョが部活も辞めて、必死にフライパンと格闘し、やっとの思いで作った目玉焼きが焦げ焦げで、とても食べられた物じゃなかったのを思い出した。
 同時に、そんな彼に心配はかけられないと、学校での事を隠していたのを思い出した。
 そして、世帯主が仕事を言い訳にして家事を一切手伝わなかったのも思い出した。
 兄貴と暮らす。場を乗り切る為に言った事だが、それが一番正しい選択のように思えた。見通しが甘くとも、精神衛生上は。中年女は結局他人だし、世帯主との同居では飢え死にしそうだ。
「……でもな、本当に考えとけよ。ヤバいかも、しれないからさ」
 彼は最後に真面目な顔に戻り、そう言い捨てて部屋を出て行った。結局、白石を知っているか聞くタイミングを逸してしまった。あんな話されたらなあ……。
 あたしはだらっとベッドに倒れこみ、そのまま目を閉じた。
 どう考えても選べない。どっちもあたしは嫌いで、いらないから。何にもいらないから。
 そう書き捨てて死んだ鈴木茜と同じ様に。
 でもやっぱりあたしと貴女は似て非なるものだと思います。
 だってあたしには、あなたの遺した言葉があるから。
 何にもいらないからと言って、自分が消えてしまう道は選ばないよ。


 夏休みもあと1日になった。同時に長いようで短かった講習会が終わった。いつの間にか正規会員になっていたらしく、九月からは週3で放課後に行かなくてはならないが、ここ4日間は暇で仕方なかった。
 はあ、暇だ……。暇は敵だ。混沌が足りなくなる。最後の一日も何もなく済むんだろうな、と思いながら中年女の作ったピラフをパクつく。うん、今日は薄めか。同じ冷凍食品のピラフの素を使っているのに、どうしていつも味が変わるのか不思議だ。
「あ、咲ちゃんそう言えば」
 さっきまでピラフを炒めていたフライパンを洗いながら、中年女が珍しく話しかけてくる。最近彼女の機嫌は上向きだった。それに反比例するように、相方の方は苛ついていているらしく、夜勤がない日でも酒を飲んでくるのか午前様が多くなった。お陰で顔を見なくてすんでハッピー。
「塾の子が自殺したんだって?」
 思わずレンゲを取り落としそうになった。こいつ、何故知っている?どこの情報網だ。CIAか?KGBか?奥さま井戸端会議情報網か?こいつ、近所に友達がいないはずなのに。
「う……うん」
 意図を図りかねて返答に困ったが、一応「YES」の意思表示をしておいた。
「そう……。じゃあ、知ってる子なのね?」
 何故そうなる。確かによく知ってる子ではあるが、どういう繋がり方をすればそうなるのかが分からない。
「う…うん、学校一緒だった子だよ……」
「それだけ?」
 ザーッという蛇口から水が流れる音をバックに聞くと、何故かその言葉は尋常じゃなく迫力があった。どういうつもりだ?何で今日はそんなに追及する?
「それだけだよ」
 折しもピラフは残り一塊。一気に口に押し込んで水で飲み込む。
「ごちそうさま」
 必殺・退出打ち切り。階段を駆け上がってドアを閉めれば、はいおしまい。その迅速さ、テレビのスイッチを切るが如く也。頻繁に使うと相手の機嫌が悪くなる時があるので、あたしはあんまり使わないが、この年代のガキならば多分誰もが使う技だろう。
 それにしても、どういう事だ?あの口調・追求、何らかの情報を集めているように聞こえる。こんな事は初めてだ。
 ……まあ、いいか。多分アレだ、昨日兄貴が言ってた夫婦仲が悪いとかそういう関連で苛ついていたんだろう。うん、そういう事にしとこう面倒くさいし。
 さしあたって考えなくちゃいけないのは、そう呟きながらベッドに倒れこむ。うえ、さっきのピラフが出てきそうだ。うつ伏せに寝るんじゃなかった。
 あー、いやそうじゃなくて……この午後の暇をどう過ごすか、だ。ころん、と仰向けになって首だけ起こして机の上を見ると、問題集の上にシャーペンが乗っかっていた。
 安いやつだ。世帯主があたしに買い与えたドクターグリップは、貰ったその日に捨てた。100円のこれで充分。肩こりとかないしあたし。
 そうか、シャーペン。シャーペンなあ……。
 その時不意に思いついて、鈴木茜追悼の為にハンネの文房具屋を訪れる事にした。彼女が新たな規定を求めるべく、秩序を打ち破るべく、万引きを敢行した聖地である。
 もちろん実家に行って線香をあげたほうが、社会通念の上で正しいのだろう。それは分かっている。でも、場所も分からないし、遺族にどういうご関係ですかとか質問されるのも鬱陶しい。また、鈴木茜も遺書を見る限りでは、親にお悔やみ申し上げるのも望んでいないだろう。
 すぐに起き上がって、塾に持って行っている薄い鞄を手に取った。中に財布も入っている。三秒鏡をのぞいて確認。よし、今日も不景気そうな顔してる。
 さあ行こう。簡潔すぎる準備だが、これ以上叩いたって何も出やしないからしょうがない。



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