act.17 赤は立ち止まる


 お盆明け二日目の授業の日、あたしと鈴木茜はまたハンネのドーナツ屋にいた。中年女にはもちろんウソをついて出て来た。自習してくるとかありえないから。
「大した話じゃないんだけどさ、ちょっと聞いて欲しい事があるの」
 そう言うと彼女はカフェオレを一口すすった。折りしもこの間と同じ席で、座っている場所も同じだった。前回と違うのは、今が授業前である事と鈴木茜の飲み物ぐらいだろうか。
 因みにあたしは相変わらずアイスティーで、やっぱりドーナツは頼んでない。
 誘ってきたのも前回と同じく彼女の方。お盆開けの最初の授業で、相談があると持ちかけられたのである。時間割が変わったために、授業の後では少々遅すぎるのでこんな時間になった。
 全く中途半端だ。あと30分もすればここを発たねばならない。それまでに彼女の相談事を片付けるのは無理な話だ。特にこのあたしには。この間、佐藤の告白に何も言ってやれなかったし。小中高と登下校を繰り返すだけの毎日を送っていたせいで、人生経験が薄すぎるのが原因だ。間違いない。
 けれど、そんなあたしでも頼ってくれる人がいるなら、しかもそれがあの鈴木茜なら、あたしは相談に応じなければならない。いや、応じたい。彼女の力になりたい。
「昔々ある所にね、一人の男の子がいたの」
 いきなり昔話ですか。これで相談後に「わたし絵本作家になろうと思うんだけど、今の話どうかな?」って言い出したら……泣かす。さすがに鈴木茜でも、泣かす。
「その子はねサーカスの一座に入ってて、すごくいっぱい芸の練習をしたの。それで、団長さんに認められたかったの。学校のテストと同じね」
 あたしはテストで褒められても大して嬉しくないが、それが一般的な反応なんだろう。名前も顔も覚えていないが、中学時代のクラスメイトで社会科教師のお気に入りの男子がいて、そいつがその教師に褒められる為に社会ばっかり勉強していたのを思い出した。結局他の勉強がおろそかになって、内申は下がる一方だったみたいだけど。
「でね、その子は玉乗りなら一座で誰にも負けないくらいうまくなったのよ。もちろん団長もそれを認めてくれて、お前は自慢の団員だって言ってくれたのよ」
 お前は自慢の娘だ、と世帯主に言われた事はない。ただ、優秀な娘だとしかあいつは言わない。それがどうしたの、咲ちゃん?いや、別に。ちょっと思っただけ。まあ言われてもキモイか。
「その子の玉乗りの芸は人づてに伝わって、見に来た人はみんな彼に感心した。でも、段々とそれだけじゃ飽きられてくるのよ。だから団長は彼に別の芸を仕込んだわ。火の輪くぐりに、空中ブランコ、アクロバットにトランポリン……とにかく、ありとあらゆる芸を」
 彼女はそこで一口カフェオレを口に含んだ。話が見えない。まさか本気で絵本作家になる気なんだろうか。そう言ったら泣かす。そんで、その涙でもういっぱいアイスティーをいれる。
「彼はすごく飲み込みの早い子だったから、教えられる芸を全部覚えた。でもね、その反面辛くなってきたのよ。どんどん団長の目が厳しくなって、ちょっとやそっとじゃ満足してくれなくなってくるし、サーカスの仲間たちは団長のお気に入りの彼に冷たくするし、お客さんの目も厳しくなって、テントには彼にミスを許さない雰囲気が出来た」
 淡々と喋る彼女だったが、心なしか表情に陰りが見えてきた。何となく、辛い思い出を話しているように見える。見えるが、彼女とサーカスは結びつかない。
「そして、あまりに辛くなった彼は脱走するの。夜のうちに身一つで」
 考えなしな少年だ。そんなような事をあたしが呟いたのが聞こえたのか、鈴木茜は薄く笑った。本当にその笑みは薄くて、とろけて消えてしまいそうだった。
「でも、叶わなかった。町を出るときに見とがめられて、すぐに連れ戻されて散々鞭打たれた。でもその子はもう芸を覚えなくてもいい、誰も問題を起こした自分に期待しなくなる、ってちょっと嬉しかった」
 その後どうなったと思う?と鈴木茜は言ってカフェオレを飲んだ。あたしは少し考えて、彼が思ったとおりにはならなかった、と答えた。
「そう。厳しい稽古の日々に逆戻り。世の中うまくいかないなあ、って男の子は思いながら今日も新しい芸を仕込まれてる」
 鈴木茜は言い終わると同時にカフェオレを一気に飲み干した。全く、オチも何もない話だ。佐藤がこんな話をしていたらあたしは多分殴ってた、いや、途中で帰っていただろう。
「で、それでどうしたの?」
 続きがあるのかも、と思って一応聞いてみると、鈴木茜は首を振った。
「これでおしまい。今は、ね……」
 そう言うと、彼女はちらりと横目で向かいの本屋を見た。そこは言うまでもなく、彼女がかつて万引きした場所だった。
「今は?」
「そう。これの続き、考えてくれない?」
 やっぱり絵本作家志望か?続きにつまったんだったら終わらせればいいのに。
「……その話自分で作ったの?」
 彼女は無言でうなずいてストローをくわえる。その中身は空なのに。恐らく、無意識の内にしているんだろう。
 全く溜息が出る。どこの作者が他人に自分の物語を続きを考えさせると言うんだ。
「だったら自分で考えた方がいいよ。自分の物語なんだから」
 あたしの言葉に、鈴木茜はストローをくわえたまま目を見開いた。まるで、風呂の湯が溢れるのを見て、王冠に含まれる金の割合を求めるのに水を使う方法を思いついた数学者のようだった。
 おかしい。何でそんなに意外そうな顔をするんだ。何でそんな今にも「エウレーカ!」と叫びだしそうな表情なんだ。あんなの、誰でも言えるし思いつく事なのに。
「やっぱり、そうだよね……」
 鈴木茜はうなずきながら言った。そうする事で自分の存在を確かめるかのように。そして、またちらりと向かいの本屋を見た。
「ごめんね、変な話して。そろそろ時間だし、行こうか!」
 妙に元気になって鈴木茜は立ち上がる。本当に変な話だった。佐藤の変質者が教室に入って来た話よりひどい。全くもって意図が見えない。
 それでも彼女が元気になったならいい。そう思える自分が、少し不思議だった。


 鈴木茜が死んだのは、その次の日だった。
 通ってる高校の屋上から飛び降りたそうだ。遺書はそろえた靴の下に置いてあって、予備校で昨日配られた三角関数のプリントの裏に一言「疲れました」とだけしか書かれていなかったらしい。
 前日に会っていたので、あたしに事情聴取が来るかもと一瞬ビビッたが、一切そういうものは来なかった。一つもなかった。
 予備校でも特に何も言われなかった。アンケートを書かされたぐらいだ。当たり前か、そういう世界だし。全部「いいえ」に丸をしておいた。
 アンケートを書かされた日、あたし宛に手紙が届いた。世帯主にも中年女にも奇跡的に見つからなかった。よかった。あの二人最近そろいもそろって機嫌が悪いから、何にいちゃもんをつけられるか分からない。
 差出人は鈴木茜。多分、飛び降りる前に出したんだろう。封筒の口を慎重に破って中身を広げる。色気のない便箋が二枚、入っていた。

「高村さんへ
 この手紙があなたの元へ届いた時、わたしはこの世にいますか?
 もしいないのであれば、嬉しいです。
 だから、もし泣いているのならば泣かないで下さい。
 これはわたしにとって、本当に喜ばしい事なのです。
 何故なら、それは用意された道だったからです。
 この前、ミスタードーナツで話した事を覚えていますか?
 あの話をした時、訝しげな表情をしていましたね。
 別にその事で、あなたを責めるつもりはありません。
 多分わたしも、他の人から同じ様な話を聞かされたら、そういう反応をするでしょうし。
 あなたなら多分もう分かっていると思いますが、あれはわたし自身の話です。
 わたしはあの話の少年のように、誰かに認めてほしくて勉強していました。
 学年一位を取ったりして、両親はその事で、わたしにすごく期待をしていました。
 でも、段々と虚しくなってきた。
 辛いし、中々遊べないし、両親が顔を合わせるたびにその事ばかり尋ねるから。
 だから、万引きしました。
 そうしたら、わたしに期待する人なんて誰もいなくなると思って。
 でも、何故かその事は不問に処されて、転校しただけでした。
 両親はわたしの事を、叱りもしなかった。
 わたしが知らない所で、淡々と転校手続きが進んでいただけだったんです。
 転校先の学校は、前の学校よりも競争の激しい進学校でした。
 いい加減辛かった。
 わたしは勉強以外にも色々したい事があるのに。
 誰にも言っていませんでしたが、わたし一時期、小説家になりたかったんです。
 わたしが書き散らした文章がたくさん出てきて、今頃みんな驚いているでしょう。
 もし機会があったなら、高村さんに読んでほしかったな。
 ところで、わたしを勉強以外で規定する事を避けた両親に、この自殺はダメージを与えましたか?
 わたしの望みは果たせていますか?
 多分、果たせてないんだろうな。
 それでも、死ねて嬉しいです。
 いつからか、すごく死にたがり屋になっていたので。
 まあ、こうしてわたしは愚にも付かない自己主張の為に若い命を散らした訳です。
 後悔はしていませんが、高村さんに一つ頼みたい事があります。
 わたし以外に、この方法をとろうとする人が身近にいたら止めてほしいのです。
 実行しようと思って気付きました、自殺なんてオススメ出来ません。
 もっと冴えたやり方が、多分世の中にはいっぱいあります。
 だから、止めてあげてください。
 確かに辛い事は死んだら終わります。
 でも、折角終わったのに楽しむ事が出来ません。
 矛盾していますが、わたしには楽しむ事も必要なかったので。
 もう何もいらなかったのです、ごめんなさい。
 だから、あなたも自殺なんてやめて下さいね。


 2004年 8月17日 鈴木茜


 追伸
 もう一つだけお願いします。
 もしわたしの自殺に関して何かインタビューを受ける機会があったら、
 『とても自殺するような子じゃなかった』
 と証言してください。お願いします。」


 自殺か。自覚してるように、冴えたやり方じゃないな。
けれど、それを理解した上で彼女はしたんだ。もうこれしかないと思ったんだろう。バカな思い込みだ。万引きの時といい今回といい、そんな思い込みだけで生きていいの?他の人はいいの?と尋ねたくなる。
 でも、彼女はそれでよかったんだろう。正当化でも美化でもなんでもない。彼女はそれでよかった。事実だ。
 だから叫ぶなエセ教師どもが。何が「戦いましょう」だ。何が「命を大切にしましょう」だ。何が「生んでくれた親御さんに感謝」だ。決まりきった一般論ばかり、バカの一つ覚えみたいに並べやがって。お前らの思い込みだけで、彼女を裁く事は出来ないのに。
 そしてあたしも。思い込みで、これを裁いて飲み込もうとしている。飲み込みたくない事実を。いつものように思い込みで。
 そうさ、あたしも思い込みで生きている。中年女が、世帯主が、兄貴が、佐藤が、担任が、クラスメイトが、あの時刺し殺したかったガキどもが、そしてあの母が、本当は何と思ってるかなんて関係ない。あたしはあたしが思うように他人から規定されている、そう感じるしかないんだ。あたしもそれでいいと思ってるんだ。
 あたしはわたしだけど、もっと本質的な部分であたしでしかないから。


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