act.16 魂祭り 今日この建物の中には、あたし以外誰もいない。世帯主は中年女と出かけたし、兄貴は多分バイトだ。 外はジンジン蒸していて、部屋で勉強しててもどうも集中できない。この間佐藤と出かけた時に買った問題集も、もうあと残り数ページなのだが、その数ページがカタツムリの歩みのように進まない。解けないわけじゃなくて、今はやれないという感じ。 やれやれ。このまま机に向かっていてもラチが明かないので、気分転換に水でも飲む事にする。 水。カルピスなんて気の利いた物がないから、水。ミネラルウォーターなら、毎年一月にだけ防災意識を発揮する世帯主が買い込んでいるので、売るほどある。 誰かが飲んでしまったらしく、冷蔵庫に入っていなかったので、少々生ぬるくなるが床下収納の在庫を飲む事にする。さてどれにしよう。森の水だよりか、六甲のおいしい水か。南アルプス天然水か、富士のバナジウム水か。それともボルビック……はあんまり好きじゃないからパス。エビアンがいい。エビアン。エビアンないし。死ね、世帯主。 くっそー、何やってんの。エビアンだろエビアン。水と言ったらエビアン、エビアンと言ったら水だろが。 エビアン買ってこようか、どうしようか……。面倒くさいし、もう水道水でいいか。カルキ臭いけど。あー、でも食中毒とか怖いよなー。浄水器つけてないんだよな、ココ。 結局名前が気になったので、バナジウム水を選ぶ。ちょっと苦労して栓を開け、手近のコップに注いで飲む。 んー、普通の水か。もっとこう、地質学者的な味がするのかと思ったんだが。いや、いいか無難な線で。 力いっぱい栓をして、野菜室に押し込める。流しにコップを置いて、さて勉強の続きを……という気分にはならなかった。 うーむ、混沌が足りないわぁ。毎日毎日同じことを言ってる気がしないでもないが。 例の遺書でも読んでみるか、とも思うけど、あれは読まないって決めたしなあ。佐藤葵があたしを信頼して預けてくれたんだろうし。 それともう一つ、あの万引きゲームもしないって決めた。こっちは鈴木茜と友達付き合いするにあたって彼女と誠実に話し合う為に、だ。 遺書、でふと思い出した。そう言えば今日は8月15日じゃないか。 お盆です、お盆。トレイじゃなくてお盆。えーと、よくは知らないけど死んだ人が帰ってくる日。 あたしが小学校の頃は世帯主の部屋にある仏壇に、金の豪華な布を掛けたり、周りにでかいぼんぼりみたいなのを置いたりしていたが、今は全くそんな動きはない。線香や、ご飯すら誰も上げていないようだ。仏壇の正面の扉が開いているかも怪しい。 そう思うと、急に母が恋しくなった。あいつらの部屋になんて入りたくもないが、まあそこは百歩譲って、会いに行ってみるか。 数年ぶりに足を踏み入れたその部屋には、鼻を突く臭いが漂っていた。趣味の悪い臭いだ。どうせ、金満主義なブランド香水だろう。 奥の寝室の床の間には、これまた金満主義な道楽の骨董品の数々。滝の墨絵が力強く描かれた掛け軸の下に、大きな赤系の紋様が描かれた絵皿と青磁の壺が置かれている。 そして一際目を引くのが、絵皿と壺の間に置かれた一振りの日本刀である。どこぞの刀匠が打った真剣らしい。休日はよくこれを手入れしているんだとか。 そういった大仰な品々をニラみつけるように、その真向かいに仏壇はあった。しかし、そのニラみもさしたる効果を持たないようだ。むしろ、そういった品々に追いやられて、ここに落ち着いたかのように見える。 昔、この陰気な黒い箱には一枚の写真が飾られていた。あたしと面差しの似た女の顔写真だ。今はそんな物は影も形もなく、ただただ無機質な位牌が置かれているだけだった。 しばらく鳴らされていないであろうお鈴を鳴らしてみる。キーンとチーンの間ぐらいの音が部屋に響く。 ついでに線香を上げようと思って、仏壇の引き出しを開ける。しかし、三つある引き出しのどこにも見当たらない。数珠と、何故か指輪のケースが入っているだけだ。多分、母との結婚指輪だろう。やり場に困って、こんな所にうっちゃっておいているんだろうか。 仏壇に目をやると、線香立てがほこりを被っていた。あたしは泣きたくなった。 今はお盆なのに。お盆には死んだ人の魂が帰ってきてるのに。彼女も、帰ってくるのに。 そりゃ本当に帰ってくるわけではない。目に見えないし、触れもしない。昔からそういう事になっている、ただそれだけだ。気休めだ。でも、その気休めがあたしは欲しい。 昔のように金の布を掛けてやりたいが、しまってる場所も分からないし、勝手にいじれば怒られるだろう。昔、中年女が気を利かしてやった時に怒鳴られていた。 不条理だ。世帯主は一度愛した女を弔う気持ちもないのか。骨董屋や何やらで買ってくる壺や掛け軸は大事にしても、刀を家に置くのに市役所に手続きに行ったりする暇があっても、亡き妻を思うことはないのか。いくら後妻がいるからといって、そんな事でいいのか。もう愛していないのか。 それとも、前妻を忘れるほどに中年女を愛しているのか。 あたしには分からない。色恋沙汰とは17年間縁がありませんから。同級生も先輩も、みんなバカにしか見えなかった。モテているのがあたしが刺したと思っているあのクソガキ共が、そのまま成長したような連中ばかりという時点で、一切興味が沸かなかった。 そしてまた、それらが移ろい行くものだからだろう。どれほどに愛したとしても、こんな風になってしまう。あたしはやっぱり永遠が欲しいのだ。永遠の白。無限の黒。終わる事のない環。決して損なわれることのない何かを。 それがないものねだりって分かってるけどさ。 |