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act.15 サイン


 屋上への出口は開いていた。まったく、この学校はどうしてこうもセキュリティ意識がないんだ。
 外に出た佐藤は懐中電灯を消した。星の明かりのお陰で意外と明るかった。
 目的地はここらしい。これで、星がキレイでしょ?とか言い出したら突き落とす。下で見るのと変わりないし。
 そう思って、ここで何をするのか聞こうとすると、佐藤はふらふらと薄暗い給水塔の方へ近付いていっていた。
 タンクの側面には、よく見えないがたくさん落書きされているようだった。佐藤はしゃがみ込んで、その内の一つを食い入るように見つめる。あたしは後ろからのぞき込んだが、暗くてなんと書いてあるかは読めなかった。
 佐藤はあたしに気を使ったのかどうかは知らないが、懐中電灯をつけてそれを照らす。
 そこには小学生丸出しの稚拙な丸文字でこう書かれていた。

「くろ あぉぃ ぃつまでも親友!ぁぃしてる!! 2000.3.18」
   あぉぃ、というのは間違いなく、この学級委員長女でカツアゲのカモの佐藤葵の事だろう。だが、「くろ」という名前には心当たりがなかった。普通に“黒”と変換された。
 まあ、人の名前が出てこないなんてあたしには日常茶飯事だ。考えるよりかは聞いたほうが早い。
「これって……」
「小学校の時、書いたのよ。卒業式の後に」
 佐藤はそう言って、スンと鼻を鳴らした。懐中電灯の丸い光の輪が揺れる。泣いているのだろうか?だとしても気にしないことにしよう。
「クロは、この時からの親友。家が近くてね、よく……遊んでた」
 幼馴染、というやつだろうか。あたしには一切縁のなかった話だ。仲の悪いヤツはいなかったが、仲のいいヤツも作らないようにしていたから。
「中学も一緒にね、バレーボール部に入ったのよ。昼間にさ、中学の学園祭が散々だったって言ったじゃない?あの時もかばってくれて、それで、やっぱりシンユウなんだって、そう思って……」
 あたしは昼間の話など覚えてはいなかったが、一応うなずいておいた。
「でね、高校も一緒のとこ行こって、試験も二人で受けて。で、やっぱりバレーボール続けてたのよ。でもね……」
 懐中電灯の光の円が、その落書きから外れた。佐藤は俯いて言葉を継ぐ。
「今は、今は……」
 あの昼休みに「トモダチじゃなーい?」と言っていた女が、そのクロなのか。それとも周りにいた二人のうちのどちらかか。あたしには前者が相応しい気がする。
 佐藤は膝小僧に顔を埋めて嗚咽を漏らし始めた。懐中電灯が手から離れて落ちる。光が明後日の方向を照らして転がった。
「佐藤さん……」
 何を言っていいのやら。ともかく、こいつはこうやって胃の腑の中身を吐き出すためにあたしをここに連れてきた、って事は分かった。
 けれど、当のあたしは何をすればいい?慰めてやればいいのか?一緒にそいつの悪口を言えばいいのか?
 分からない。目の前で泣いている、この哀れな少女を慰め、積年の吐瀉物を処理するのは、あたしにとって何よりも難しい事だった。
 かつてあたしは、こいつの愚痴を大便を垂れ流すような物だと評した。しかし、今はそんな気分にはなれない。確かにここに来るまで何事もなかったが、たったこれだけの口で説明すればいいような落書きを見せる為だけに、リスクを犯して小学校に侵入した佐藤葵の本気を、「いじめられっこの愚痴」と断じてしまうだけの醜悪さを、あたしは幸か不幸か持ち合わせていなかったからだ。
 これは日常的な排泄物と言うよりは、呑み過ぎてもどしてしまった吐瀉物と言う方が相応しい気がする。勿論、呑み過ぎたのは自分の苦しみや嘆き、そして相手の醜悪な行為や感情である。そんなものを毎日呑み込んでいては、消化しきれなくて当然だ。
「……ちょっとほっとしいて、ゴメン」
 何も欲しくないようだ。いや、何ももらえないと思ったのか。どちらにしろ、あたしは無力感を感じずにはいられなかった。そして、いつもなら蹴り転がしてやりたくなる背中が、何故か妙に小さく愛しく思えた。
 認めたくはない、認めたくはないが、それは今までになく好意的な感情だった。ちょうど、鈴木茜に感じるのと同じ様な。
 まあ、そうなったからといって何か出来るわけじゃない。あたしは彼女の側を離れて、屋上のフェンスに背中を預けて空を見上げた。
 今日は盛りだくさんの日だ。佐藤に偶然会って、バイト中の兄にも会って、偶然非常口と屋上の鍵が開いてる学校に侵入し、佐藤の告白を聞くことになろうとは。
 こうして考えてみると、今日そうならない道はなかったんじゃないか、そんな気にもなってくる。あたしに混沌が足りなかった事、ハンネに佐藤がいた事、兄が広場でバイトをしていた事、これらは全部バラバラの事象のはずだ。それなのに、どうして結びついた?
 それはあたしがハンネに行ったからだ。佐藤もハンネにいて、そこで出会ったからだ。 では何故ハンネに行った?佐藤の事情は知らないが、あたしは混沌の補給の為だ。
 何故ハンネで混沌を補給する?それは鈴木茜があそこで万引きして、その行為があたしの心に深く根ざしているからだ。
 つまり、鈴木茜があそこで万引きしていなければ、今日ハンネで佐藤と出会うことはなかった。ならば、鈴木茜が万引きした時点で、この小学校に今夜侵入することは決まっていたと考えられないだろうか。
 いやむしろ原因はもっと前と考えられる。あたしが混沌を求めていなければそんな事をせずに、それなりにのほほんと暮らしていただろうから。
 だから、あたしが混沌を求める理由を考えればいいのか。
 それは、いじめられていたからだ。
 では、何故いじめられた?
 あたしがなじめていなかったから。いいヤツ振りが連中には鼻についたから。
 そして、母親がいなかったから。
 となると、佐藤の言ったことは、あながち間違いじゃない。全ては用意されていた。
 今までの事も?今までが積み重なって今があるんだから、そう考えるのが自然だろう。
 これからの事も?今が積み重なってこれからを作るなら、そう考えるのが自然だろう。
 あたしが小学校の時バカ連中を刺したいと思っていたのも、鈴木茜があの時万引きしたのも、佐藤葵が今現在カツアゲされているのも。
 更に言えば、世帯主と母が出会ったのも、その二人があたしを作ったのも、「咲」という名前を付けたのも、兄が先にいたのも。

 そして母が死んだのも。

 全ての事、総ての物が、初めからあたしたちにそうせよと命じていたからなのか?
 何もかも、何もかもが、初めから決められた秩序に従って起こっているのか?
 あたしには許容できないこと、幼稚園でプリンを取られ、小学校でいじめに遭い、中学校で沈黙を保ち続け、高校で佐藤葵に絡まれ、でも助け、今ここに一緒にいる事、これらもまたその秩序に従って起こったのだろうか?
 ならば聞きたい。どうしてあたしにはお母さんがいないのか。それに対して理論的な答えを、納得できる答えを提示してくれ。
 神に愛されすぎたから、なんて牧師の言葉は聞き飽きたんだ。何が神だ、何が愛だ。あたしの方が愛していた。あたしの方が必要としていた。それなのに、それなのに、何故とりあげるんだ。
 出来ないだろう。答えられないだろう。そんな事は知っていた。でも、叫ばずにいられなかった。
 母を返せ、と。
 そんな運命など、秩序などいらない、と。
 それなのに、それなのに……。
 決まっている、或いは、書かれている。
 初めから、そして恐らく、終わりまで。
 何て世の中だ、クソ。
 そう何回言っても飽きないぐらいに、外道なシステムだ。
 あたしは空から視線を佐藤に戻した。頬を水滴がつたう。雨?いや、泣いているんだ、あたしが?あたしが。バカらしい。バカらしい。バカらしい。  何を泣くことがある?これからもまだ何十年も、その瞳に混沌を抱えながら、がんじがらめの秩序に耐えねばならないのに。
 なら、耐えてやる。そして、最後まであがく。
 今夜だけは言ってやる。誓ってやる。いくら言っても何ともならない、誓いに何の意味もない、そう知っていても。
 なあ学級委員長女――いや、佐藤葵よ。
 誓いになんて何の意味もないよな?形にしたって裏切られてる。あたしはお前は大嫌いだが、そこには同情しよう。あたしも世帯主に裏切られて、「両親」を失ったから。家にいるのは給料配達人と壁の花だけになったから。
 あたしたちは、そこで似ていたんだ。あたしはだからお前が嫌いだったんだ。やっと分かった。お前はあたしの補集合で、あたしもお前の補集合だったんだ。
 佐藤はあたしの視線に気が付いて顔を上げた。その目は真っ赤で、今の彼女は哀れなウサギだった。今は夏なのに、急いで温めてやらないと凍えて死んでしまいそうだった。
 どうした高村咲?何を感傷的になって、甘いことを思っている?
 哀れな、か。こいつにそんな感情を抱くとは、十分前まではありえない事だったな。けれど、今気付いたんだ。こいつはあたしだと。あたしがなれなかったあたしの一人だと。
 こいつの寒さは、辛さは、哀れな姿は、全てあたしの物なんだ。
 だから、あたしは甘い事も考える。今、佐藤の側にも立つ。
「咲ちゃん」
 鼻をすすり上げながら、囁きよりも小さな声で、佐藤はあたしに言った。
「あたし、今日死ぬつもりだったのよ」
 本気かこいつ?きっと本気だろう。いじめが辛くて自殺、そこまでステレオタイプか?
 けれど、「なら死ね」とは今日は言わないでおいてやる。思わないでおいてやる。特別だ、今日のあたしは彼女に甘いから。
 佐藤は足元に鞄を置いて中を探り何かを取り出しながら言う。
「でも、やめ。今日はそんな日じゃなかった。人に話してすっきりしたし……」
 そんな程度で揺らぐなら死のうとするなよ、とは思ったが、まあいいさ、今日は大目に見といてやる。
「これ、遺書のつもりだったんだけど、預けとくね。もう、死ぬなんて思わない。トモダチが、本当に友達だって分かったから」
 佐藤の差し出したその封書を、あたしは無言で受け取った。受け取って、彼女の友達になる事への了承の意思表示代わりにした。佐藤の為というよりは、あたしの為に。
「だからね、咲ちゃんと今日会ったことで、あたしは命を拾ったのよ」
 それもまた、運命だったのだろう。腹が立つほどによく出来ている。まるで素人の書いた三流小説のようなご都合主義だ。
「ありがとう」
 『遺言』を左手で持って、あたしは右手を差し出した。佐藤はそれをしっかり掴んで、立ち上がった。もう互いに泣いてなどいなかった。


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