五 来世でまた会おう その2


 その日の放課後、いつものように優歌がクラブボックスに向かうと、部室の中には露子とエミリ、そして松代の三人がいた。
 エミリはソファーに座って文庫本を読み、松代はその隣でダンベルを持ち上げている。露子は珍しくスケッチブックを広げ、台の上に載った果物カゴのデッサンに励んでいた。
「お疲れ様です」
 珍しいこともあるもんだ、と露子をちらちら見ながら優歌は鞄を置いた。
「よう、お疲れ」
「お疲れ様。部長がスケッチブックを広げているのが、そんなに珍しいかしら?」
「はい。『全裸部』の活動が本業だと思ってましたから」
 視線に気付いたエミリに問われて、優歌は素直に返事した。
「しっつれいしちゃうわねー。あたしほど熱心な美術部員は、全国でもそういないよ?」
「だったら全裸になったり、人を全裸にしようとするのを止めて下さい」
 因みに、今も特に意味もなく裸であった。
「いくら迫害されようと、芸術活動は止められないの」
「芸術って、絵を描くのに裸になる必要があるんですか?」
 そう言いながら、露子のスケッチブックを覗いた。正面に置かれた果物カゴが、そっくり描き出されていて、優歌は舌を巻く。この間の絵本といい、やはり絵はうまいのだ。
「……あたしのおじいちゃん、画家だったんだけどね」
 ペンを動かす手を止めずに、露子はぽつりと言った。
「七条宝亀っていって、結構有名だったのよ?」
「はあ……」
 芸術を志したのはおじいさんの影響だったんだろうか。意外とまともなきっかけに、優歌は驚いた。
「おじいちゃんが若い頃に入っていた絵のグループで、モデルをしてくれる女の人が、すごい美人だったんだって」
 たくさんの画家志望の青年に囲まれた中、白い肌をさらけ出した彼女の姿は、あまりに眩しく、気後れした露子の祖父は絵を描くのもままならなかったという。
「おじいちゃんは、絵筆も持てないくらいに色々な意味でがちがちになっちゃった。でもこのままじゃダメだ、と思って、ある行動に出たのよ」
「どうしたんですか?」
 やや嫌な予感がしながらも、優歌は尋ねた。
「自分も脱いだに決まってるじゃない」
「決まってませんよ!」
 予感的中である。そのグループからは追い出されたが、以来露子の祖父は絵を描くときは裸になるようになったのだそうだ。
「だからあたし、子どもの頃から絵を描くときは裸なのよね。おじいちゃんみたいな、いい絵が描けるように」
 さらさらとカゴに陰影を付けながら、露子はどこかしみじみとした口調で言った。
「芸術は裸だ。うちのおじいちゃんは、いつもそう言ってたわ」
「いい話っぽく締めましたけど、血は争えないってことでいいですか?」
「あんた、あたしのいい話をよくそんな風にまとめられるわね」
「今のどこがいい話だったんですか!?」
「全体的にいい話でしょ? 美人のモデルを前に脱ぎ出した辺りなんて、全米が泣くレベルよ」
「わたしが身内なら、別の意味で泣きます」
 少なくとも感動の涙は流さない。
「まあ、お互いを理解し終えたところで、じゃ優歌ちゃんも裸になろうか」
 顔を上げたと思ったら、その一言である。
「嫌ですよ! 特に理解してないし、したくないし!」
「もう果物描くの飽きたのよ。来る日も来る日も、リンゴ、リンゴ、リンゴ、ナシ、リンゴ、リンゴ、リンゴ……」
「ブドウとバナナとパイナップルの立場は……」
 果物カゴをちらりと見て、優歌は言った。
「裸の女の子を描きたいと思っても、バチは当たらないでしょ?」
「もしバチが当たらないなら、わたしが当てます」
「あら、それわたしが去年言ったセリフ」
「……何であんたはそんなにエミリの影響が大きいのよ?」
 一日に二度も言われるとは。ぐさりと何かが心の中に刺さった。エミリの方を振り返ると、彼女は笑顔で右手を挙げた。
「後継者の育成は順調のようで、何よりだわ」
「あとは、もっと底意地の悪さを身につけたら完璧ッスね」
「なりませんよ、後継者!」
 なりたいものは未だに見つからないが、それにはできればなりたくない。
「じゃあ、あたしの影響を受けて全裸になりなさいよ」
「それはもっと嫌です」
 はっきりと言われ、露子はあからさまな舌打ちをした。
「まあ、裸じゃないなら、モデルしてもいいですけど……」
 あんまり冷たい態度や返しをしていると、本当にエミリの後継者になってしまいそうなので、少し譲歩してみた。
 しかし、露子は大袈裟に首を横に振った。
「ダメ! 裸じゃなければ何の意味もないし!」
「何でそんな裸に固執するんですか!」
「……あたしのおじいちゃん、画家だったんだけどね。七条宝亀っていって、結構有名だったのよ? おじいちゃんが若い頃に……」
「その話はさっき聞いたところです」
 しかも全く同じ語り口である。危うく話題がループする所だった。
「じゃあ、男の人描いたらいいじゃないですか。男子の上裸なら女子よりも問題は少ないですし。マッツ先輩とか腹筋割れてるんでしょ?」
 それに男子ってそういうのを見せたがるものじゃないんだろうか。
「まあな、八つはあるぜ」
 話を振られた松代は、ダンベルを上下させながら得意げに応じた。
「男の腹筋なんて、吾郎のを描き飽きたわよ」
「うわぁ」
「な、何よ?」
 少し顔を赤らめて、露子は優歌をにらんだ。
「いや、何か、そういうこともしてたんだなあ、って」
 もう少し異常な付き合い方なのかと思ったら、割と微笑ましいことをしていたようだ。
「つーか全裸部長、未練あるんじゃねえの?」
「な、ないわよ!」
「その時のスケッチブック、捨てずに残してあるのに?」
 松代に続いて、エミリも横から入ってくる。なんとも楽しげかつ意地悪な笑みを浮かべていた。
「か、描いた絵は捨てない主義なの! 幼稚園の頃のからとってあるわよ!」
「他のは持って帰ったのに、あれだけ部室に置いてあるわね? それはどうして?」
「ど、どうでもいいでしょ!」
「どうでもいいなら捨てちゃおうかしら? 前に画集が入りきらないって、言っていたじゃない。スペースが空くわよ」
「だ、ダメ!」
 更に突っ込んでいく。全然わたしなんてマシじゃないか、とその様子を見ながら優歌は思った。
「て言うか、あんなシスコンどうでもいいし!」
 最早首まで真っ赤であった。
「ふふふ、この話題には弱いわね」
「ったく、悪趣味なんだから。覚えときなさいよ」
 ぶつぶつ言いながら、露子はスケッチブックのページをめくった。
「でも、こうやって噂してると、吾郎先輩来ちゃいそうですよね」
「噂をすれば影、と言うものね。個人的には迷惑なのだけれど」
「ま、あゆみちゃんもいねえし、来ないんじゃねぇッスか?」
「いや、でも吾郎先輩も、結構未練あるみたいだし……」
「あらあら、そうだったの? お互い素直になればいいのにね」
 そう言いながらエミリは、優歌の背後を指す。振り返ると露子が姿見を取り出して、自分の体のあちこちを確認していた。
「ムダ毛は全部オッケー、顔もいつも通り美人だし……」
 やっぱり気にしてるじゃないですか。そう優歌が言おうとした時、部室の戸が乱暴に開かれた。
 入って来たのは、戸川吾郎その人であった。何というタイミングのよさだろう、と優歌は目を丸くする。
「すまん、匿ってくれ!」
 ジャージ姿で息を切らした吾郎は、それだけ言うと露子などには目もくれず、部屋の右の壁に設置されている掃除用具入れの中に隠れた。
「な、なんなんスかね、吾郎さん。えらく慌ててたけど……」
「さあ……?」
 松代とエミリは顔を見合わせた。
「無視? 無視なの? ねえ、なんなのあいつ?」
「な、何かのっぴきならないことがあったんですよ! 多分」
 優歌の呼びかけも虚しく、露子はいつぞや松代に虫レベルと言われた時と同じように、三角座りで自分の世界に閉じこもってしまった。
「部長はさて置き……本当に、どうしたんですかね?」
 掃除用具入れをちらちらと見ながら、優歌は言った。
「とうとうあゆみちゃんに手を出して、近親相姦の罪で石打の刑にでもされそうになったんじゃないかしら?」
「いやいやいや、さすがにそれは……うーん……」
 ない、とは言い切れない優歌であった。
「本人に聞いてみりゃいいんじゃね?」
 そう言って松代が掃除用具入れに近づいた時、再び部室のドアが乱暴に開かれた。
「永治!」
 そう叫びながら入って来たのは、中村美咲、もとい朝霧氷愛魅火であった。鞄と細長い袋を持って、整った髪を振り乱していた。
「朝霧!?」
「あらあら」
 松代は目を見開き、用具入れに伸ばした手を引っ込めた。
「な、なんの御用ですか?」
「永治はどこだ!?」
 怯みながらも優歌は尋ねたが、意味の分かる応答は返ってこない。
「永治なんていねーよ」
「嘘だ! ここに入っていくのを見た!」
 隠し立てすると容赦せんぞ、と朝霧は部室の中を睥睨した。
 もしかして永治って。優歌は思い当たって、それを口にしようとした。
「あの……」
 しかし、横から伸びてきた冷たくやわらかい何かで塞がれてしまう。
 エミリの手であった。何か考えがあるのだろうか。彼女は優歌に目配せし、手を離すと、氷愛魅火の方へ進み出た。
「容赦しないって、どうするつもりかしら?」
「決まっている!」
 彼女は鞄を置いて細長い袋の中身を取り出した。黒くて長く、ずっしりとしたそれは、優歌がテレビくらいでしか見た事のないものだった。
「か、刀!?」
「この『菊ギガ文字』に物を言わせることになる」
 すらりと鞘から抜き放ち、両手で構え、切っ先をエミリに向けた。
「なあに、その恥ずかしい名前の模造刀?」
「『クーゲルシュライバー』で斬嶋観月が持ってる刀の名前ッス」
 小声で松代が注釈を入れる。こんなものまで持ち歩いてなりきっているなんて、相当重症だな、と優歌は心中で溜息をついた。
「模造刀だと思うか? 刀を抜いた私は優しくないぞ」
「あら、怖い怖い」
 全く恐れた様子なく、エミリは挑発しながら近付く。
「それ以上近付くと、『修羅舞踏流』の奥義を食らわす!」
「何の流派かしら? 少なくとも、剣術のものではないようね」
「ふ、無知とは怖いものだな。しゅ……!」
 言いかけた氷愛魅火の顔を覆うように、エミリの手が無造作に掴んだ。もう片方の手で、刀の切っ先をつまんで退けると、彼女の耳元に顔を寄せて言った。
「そんな風に両手をくっつけて柄を握っちゃって、『げんこつ山のたぬきさん』?」
 氷愛魅火は首を振ってエミリの指を外そうとするが、離れない。
「あなたの言葉をそっくり返すわ。無知とは怖いものね。なりきるなら徹底しなさいな。少なくとも、わたしの友達はそうしているわ」
 そう言うと、エミリは氷愛魅火の体を突き放すようにして離れた。彼女はたたらを踏み、尻餅をついた。
「え、エミリ先輩……」
「さすがッス! エミリさん!」
 エミリの迫力に気圧され、少し青ざめた優歌とは対照的に、松代は陽気に親指を立てた。
「あら、マッツくんのガールフレンドなのに、いいの?」
「全然問題ないッス! むしろこれで更正してくれたらいいのにって感じで」
「そう。残念ながら彼女は、まだ心が折れてないようよ」
 完全にぽっきり行くつもりだったかのような口調であった。彼女の言葉通り、氷愛魅火はゆっくりと立ち上がっていた。
「こんな屈辱は、この世界に来て初めてだ……」
 ぷるぷると震えさえしながら、芝居がかった調子で彼女は言う。
「このままではすまさん! 『クーゲルシュライバトル』で勝負だ!」
「……はい?」
「くーげる……? 何?」
 人差し指を突きつけられたエミリと、優歌は顔を見合わせて、首を傾げる。
「く、『クーゲルシュライバトル』!? まさか本当にやるヤツがいるとは……」
「知っているの、マッツくん?」
「『クーゲルシュライバトル』! それは熱き戦士たちの戦い! 『クーゲルシュライバトル』! それは人生の縮図、漢のロマンである!」
「いや、具体的になんなのか聞きたいんですけど」
「自らの無知を認めれば教えてやろう」
 何故か勝ち誇ったように氷愛魅火は胸を反らす。
「さあ、床に手を突いて言うがいい、『無知な自分をお許しください。どうかお教えください』と」
「ちょっとどうなんですか、そう言うの」
 優歌にしては珍しく、嫌悪感を露骨に表情に出した。
「ほう、貴様が相手になるというのか。既に『クーゲルシュライバトル』が始まっているとも知らずに」
 飲まれてなるか。優歌は挑発する氷愛魅火の目をにらみ返した。ここで相手のペースに巻き込まれたら、ろくな事にならないのは、この数週間で学んだ。
「……って感じで進めるンスよ」
「よく分かったわ。つまり、『クーゲルシュライバー』の作中競技ね」
 視線の応酬を繰り広げる二人を尻目に、エミリは松代の説明に深くうなずいていた。
「あ、勝手に説明するな!」
「悪いな、朝霧。俺はどっちかっつーと、自由創作部の人間なんだよ」
 氷愛魅火の抗議に、松代はひひひと笑った。
「……まあいい。理解したなら勝負だ! 表に出ろ!」
「だって。頑張ってね、優歌ちゃん」
「わたし!?」
 全く説明を受けていないというのに。しかも、これはエミリが売ったケンカではないだろうか。
「お前が来るのか。いいだろう」
「ほら、向こうも認めてくれたわ」
「勝ちの目が出る方を選んだってわけだな」
 舐められてんぞ優歌ちゃん、と松代に背中を叩かれた。
「いや、その、せめて説明してくださいよ!」
「わたしが後ろから指示してあげるから」
「そんなんでいけるんですか? わたし運動神経のなさには自信がありますよ……」
「平気よ、あなたのツッコミ力があれば」
 そういわれると逆に不安になってきた。と言うか、何で戦わないといけないんだ。





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