act.01 賛美の唄


 テストが終わった。返ってきた。家で見せたら褒められた。退屈だ。
 退屈だ。混沌が足りない。
 大人しそうな顔をして、当たり障りのないところで頷く生活。周囲はあたしをよい子と呼ぶ。今までも、そして今の担任も「優秀なお子さんで……」と言いやがった。
 中年女は喜び、家の世帯主は満足げに頷く。あたしも困ったような照れたような表情を浮かべながら、物足りなさを噛みしめる。
 何なんだお前らは。あたしはこんなにお前らが嫌いなのに、どうしてこんな薄っぺらな数字で褒めるんだ?
 この不自然さが、宇宙の発生以前に渦巻いていた混沌を招きよせる。この世界を滅ぼして再構築する為に、あたしの心の奥から無限に湧き出てくる。
 邪魔な奴等を皆殺しにして、世界を新たに作りかえる。あたしの、あたしによる、あたしの為の世界だ。
 そこには何もいらない。ありすぎて息がつまる今なら言える、何もいらない。
 何度だって言える、何もいらない、何もいらないんだ。
 けれど、それは結局は妄想の世界の産物だ。その混沌はあたしの頭の中でしか、全てを飲み込んではくれない。現実では被さりきらずに破れたり、飲み込みたくないと吐き出したりする。
 そして、愚かで矮小なあたしは世界の表面で「わたし」を演じ続けながら、今も泥沼に浸かっているのだ。
 もがく気もない。誰が沈もうと知らない。惰性ピラミッドの最底辺で、今日も他人事の刺激を待つ。
 それにしても退屈だ。退屈だ退屈だ。リアルの混沌が欲しくなってきた。
 文房具屋のアレは一ヶ月に一度と決めているから、今月はもうやれない。
 もうやれないけれど、体は只管にアレを求めている。
 取るに足りない矮小なあたしが、神になれる瞬間を。待たなくともすぐに湧き上がる、インスタントな混沌を。
 それは泥沼の中で出来る、唯一の抵抗であり、深夜窓辺に全裸で立つよりも、大きな快楽をもたらすもの。
 やろうかな?
 やりたいな……。
「じゃあ、学園祭の企画を決めたいと思います。意見のある人は手を挙げて」
 甘美な空想に水をさす粗雑な声。この間腹を踏みつけてやった学級委員長の女だ。こいつはあたしの頭の中で既に6回死んでいる。
 やれやれ、と心の奥で溜息をついて周りを見回す。誰も手を挙げていない。いや、寧ろ誰も聞いていないと言った方が正しいだろう。
「じゃあ、適当に案出すから……」
 学級委員長女は黒板に「きっさ店」と書く。ありきたりだ。というか喫茶ぐらい漢字で書け。
「はい、他に意見ある人ー?」
 やっぱり誰も手を挙げない。喫茶店決定。誰も関心がない。喫茶店決定。 「喫茶店でいいの?」
 誰も返事しない。やる気がない。帰りたい。早くしろ。
「じゃあ、喫茶店ってことで!」
 黒板に書かれた「きっさ店」の文字に丸をする。投げやりな拍手が鳴る。
「えー、あと、文化祭の実行委員長も決めないといけないんだけど……」
 学級委員長女が教室を見回す。こっち見んな。
誰かやれよ帰りたいよ誰かやるって言えよHEROの再放送始まるよ誰か手挙げろよそいつがヒーローだよ、という空気が充満して窒息しそうだ。
「しょうがないので、わたしがやります」
 溜息をついて、学級委員女が言った。男前だ。またパラパラと拍手が鳴った。拍手しながら鞄を抱えだすヤツもいる。こういう事は、みんな早いのだ。

 文房具屋は、駅前の大型ショッピングセンター『ハンネ』の中にある。敷地を書店と文房具屋で半分ずつ分けている。隣は薬屋で、向かいにはミスタードーナツと花屋が入っている。ここがあたしの聖地だ。
 入り口は、レジの前に一つ。そこに万引き防止装置が立っている。黒っぽい色をした小ぶりの門のようなそれは、あたしを讃える歌を奏でる神聖な楽器だ。
 いつも思うが、あの装置の上を通せば引っ掛からないんじゃないだろうか。まあ、鞄をそんな高い位置で持っていたら、店員にバレバレと言えばバレバレなのだが、例えば帽子の中に入れて被って出れば、小さい物なら持ち出せるのではないか。ニット帽なんかを浅く被って、帽子と頭の隙間に品物を入れれば楽々だろう。
 そんな事を度々考えたが、あたしに試す気はさらさら起こらない。何故ならあたしには万引き犯が捕まるのを見る方が、やるよりも数倍魅力的だからだ。
 これをし始めて、もう一年になる。
 きっかけは去年のある事件だった。
 その子は確か、鈴木といったか。学年一位をとるような子で、凄く賢かった。勉強が出来るだけじゃなくて、本当に賢いタイプだった。大人しくて清楚でいつも笑っていて、よくしつけられた犬のように昔教えられた事に従順で、お腹を踏みつけてやったらどんな顔でどんな悲鳴を上げるのか知りたくなるような、そんな子だった。
 つまり偶然か必然かは知らないが、表面上のあたしが演じている「わたし」のような人間だった訳だ。まったく反吐が出るぜ。
 あたしもテストの成績は結構いいほうだが、彼女に勝ったことはなかった筈だ。まあそんな事はどっちでもいいんだけれど。
 けれど、世の中はテストで点が取れるやつが評価を受けるから、彼女は一目置かれていた。そして、それに満足していると思っていた。
 そうあたしは思っていたのに。
 万引きしやがった。この店で。
 しかもこのあたしの目の前で。
 あたしは泣き出す直前の鈴木の顔を見た。
 けたたましい警報音に驚き、座り込んだ彼女の整った眉が八の字に下がるのを見た。
 店員が彼女のところにやってきて何か言うと、火がついたように泣き出した。
 甘美な泣き声だった。どんな伝説的バンドの演奏も、どんな歌姫の声も追いつけない魂の歌。
 あたしは一部始終を見ながら、世界がこれほどに美しい音色を立てるものかと感動した。高く高く積みあげられた物が崩れ落ちる音――それがあたしの求めていた物だったのかもしれない。いや、少し違うかも。
 とにかくそれ以来、あたしはあの警報音を聞くだけで興奮するようになった。ちょうど、ライブ会場で熱狂的なファンが、曲のイントロを聞いただけで歓声を上げるのと同じ様に。メロディを聴くだけで思い出すのだ、あの切羽詰った悲劇の歌詞を。
 だからアレを聞くために、あたしは今正に目の前のおばさんの買い物袋にシャーペンを入れるのだ。これがあの曲を聴く為の演奏開始ボタンだ。
 そして素早く本屋のスペースに移動するのだ。そして、彼女の背中を見送るのだ。
 そして、そしてああ――
 鳴り響く警報音があたしの体を満たしていく。今あたしはきっと、見られたらお嫁にいけなくなるような表情をしているに違いない。でも大丈夫だ。店員と他の客はおばさんを見ている。
 おばさんは凍りついた表情でやってくる店員を見、すぐさま弁解し始める。何も盗ってない、これが壊れてるんじゃないかと繰り返す。
 とんだ不協和音だ。もっと、このメロディにあった歌を歌え。興醒めしてあたしは、おばさんと店員の脇をすり抜けて店を出た。
 すれ違い様店員と一瞬目が合った気がしたが、気にしない。あのおじさんには、あたしのやった事だなんて分からないだろう。


目次に戻る