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act.02 二律背反


「ただいま」
「おかえり」
 中年女が出てくる。暇か?暇なのか?どこのババアも押しなべてカスだ。
「手を洗ってらっしゃい。おやつにケーキがあるわよ」
「はーい」
 ケーキ?どっから持ってきたんだ?
 どうせおっさんのクライアントの、親族からの貰い物だろう。あの男は人間の体を切ったりする仕事をしていたはずだから。
 そんな事はどちらでもいい。今日はすごく汗をかいた。先に着替えたい。温暖湿潤気候特有のこの蒸し暑さが、あたしはすごく嫌いだった。大体暑いのが苦手なのだ。夏と冬なら、絶対に冬の方が優れている。
 とりあえず洗面所に入った。蛇口のレバーを上に引いて水を出す。水はザーッと音をたてて、真っ直ぐ下水へと流れていく。
 あたしはその間に手を入れて、両手を少し湿らせる。そしてハンドソープの頭を押し、白い泡を受け取って、塗りこむようにかき回す。そして再び水の流れに手を入れて、それらを見えない汚れごと下水へと追いやる。きつい人工的なにおいが鼻を突いた。
 傍らにかけてあるハンドタオルで手を拭きながら、あたしは鏡を見た。
 貧相な体で背の低い、両手をタオルで拭いている女が映っている。
――誰だお前は?
 鏡に向かって問いかける。もちろん答えは返ってこない。そして聞くまでもない事だ。
 あたしだ。あたし。それ以外の何者でもない。別人だったら、怖い。
 けれども、それは認めたくない事実だ。
 切りそろえられた長めの黒髪。無愛想な表情。きっちりと指定を守ったブレザー――これがあたしならば、どれほど秩序に支配されているんだ?
 どれほど認識しやすいように、秩序化されているんだ?
 相変わらず何もかもに混沌が足りない。くそっ、あのオバンめ。
 
 世の中嘘だらけ。
 制服を脱いでハンガーに掛けて、あたしはそう呟いた。ドラえもんじゃないんだから、こんなことで傷つきはしない。階下じゃケーキが待っている。いや、関係ない。 むしろ憂鬱の一要因だ。何でいつもいつもどいつもこいつも洋菓子を持って来るんだ。いちご大福が食べたい。
 またも鏡を見る。見たくもないはずの自分の顔を見る。あたしの部屋にはでかい鏡がある。制服のリボンを直す位にしか使わないが、あの女はどうしても娘の部屋に姿見を置きたかったらしい。
 鏡に映ったのは、さっきとほぼ同じ無愛想な顔の女。違うのは、制服を脱いだ所ぐらいか。白い下着だけをまとっている。腹は出ていないが胸が薄い。
 鏡の両端に手を突いて中のあたしに近付く。あたしの女も迫ってくる。
 それに抱きつくような形で、ゆっくりしゃがんだ。中でも同じ動きをする。
 膝をぺたりとついて座って、笑顔を作ってみた。中の女も笑う。
 こんな顔をしているのかあたしは。いつでも、どこでも。やだ可愛くない、などとあの学校の連中なら言うところだろうか。これとあたしの心は、いつからか全くかけ離れてしまったのに、未だに意味もなく唇を釣り上げているのか。
 あたしは鏡から体を離して後ろにつき、思いっきり体を反らして天井を見上げた。
 現実なんてクソだ。いちごの載ってないショートケーキだ。むしろ、いちごのないいちご大福か。なんだ、ただの大福じゃないか。
 現実なんてクソだ。
 声に出して呟いたらよだれが垂れて、あたしの乳房の上に落ちた。

 家に帰ればケーキが待っている、というのは世の中で何番目ぐらいの幸せなんだろうか。多分、世界でもかなり上位の部類だろうと思う。この国では、ダイヤモンドやレアメタルの採掘権をめぐって多国籍軍や反政府ゲリラが入り乱れたりはしないし、開祖の従弟が好きかそうでないかの対立を世俗に持ち込んだ宗教右派も恒常的に自爆しないのだから。
 だから日々に感謝しなさい。そう言われても説得力を感じないのは何故だろうか。やっぱりあたしも死にたい時があるし、常に幸せいっぱいでいるわけではない。
 例えば今あたしはショートケーキを食べようと思って台所に下りてきた。ところが出てきたのはモンブランで、しかも中年女は白いクリームと緑のヘタが残った皿を片付けている最中だった。これは世の中で何番目ぐらいの不幸なんだろうか。笑顔でこのモンブランを悔しさとともに胃の腑に収める不幸は。
 世間を知り尽くした人にとっては、これはきっと不幸とは言わないんだろう。幸福。食べ物にありつける=幸福。
 だからきっと、あたしが不幸だと思うのが間違っていると彼らは言うのだろう。
 或いは、今の子は物質的に恵まれているが、心は貧しいなどと言うのだろう。
 社会心理学的見地から、とかそういうご高説を述べる機会が来た、と張り切るのだろう。
 そんな小難しい物を持ち出さなくても一言で説明できるのに。
 ただ、“世の中はいつもクソ”と言うだけで。茶色いモンブランだけに、さ。

 眠れない夜は一人でベッドの上をころころする。そして疲れて眠っていく。
 けれど、今夜はベッドから落ちそうなぐらいに転がっても眠れなかった。
 あまりに眠れなかった。思考はボウッと漂って、何故か鈴木茜のところに漂着した。学年一位なのに、万引きをして補導されて学校も辞めたあの子のところにやってきた。多分、今日のババアのせいだ。ババアはヤバイ。どれもあたしの期待を全て裏切りやがる。
 まあ考えても腹が立つだけなので、ババアは置いといて鈴木茜か。学年一位なら普通は満足する筈なのに、どうして彼女は万引きなんてしたんだろうか。
 ストレスだ、と訳知り顔の大人は言った。あたしもそう思う。
 魔が差したんでしょ、と訳知り顔のクソガキは言った。あたしもそう思う。
 でも、どちらも正しくなさそうだ。
 万引きは初めてだったんだろう。すごく挙動不審だった気がする。社会通念上悪いことだときっと分かっていた。けれど、そうまでして欲しかったのはピンクの100円シャーペンなんかじゃなかったはずなんだ。
 鈴木茜もまた、あたしと同じように混沌が足りなかったんだろうか。似たような状況だったんだろうか。
 ならば彼女に聞きたい。それであなたは何かを見つけられましたか?  あたしは今、混沌が足りなくて困っています。本当にやりたい事なんてどこにもありません。
 でも、あたしとあなたは似て非なる者だと思います。
 だってあたしは結局混沌が欲しいだけだから。あなたのように迷いはしない。
 やっぱりあたしは神だ、ははははは。
 そう考えると安心して眠れた。


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