act.03 肌の下


 表面的な部分で、小学校の頃からあたしはいい奴を演じ続けていた。
 そこでは、あたしはわたしで、その一見些細な一文字の差が全知全能と小市民を分け隔てる壁だった。
 その壁を介してなら、どんなに無能な人間とでも話し合うことが出来る。例えば、何故か親しげに話しかけてきた頭の中で六回は死んでいる学級委員長女とでもだ。
「おはよう」
「あ、おはよう……」
 この佐藤とか言う女との出会いは、このクラスになった時である。
 学級委員という役得が一見ありそうで実は一切ない役職についた事がそんなに誇らしいのか、特別親しいクラスメイトがいないあたしに話しかけてきやがった。特に友達がいないあたしへの同情だろうか。
 だとしたら、こいつは分かっていない。あたしには友達がいないのではなく、友達が要らないのだという事を。まあ、分かって欲しくもないのだけれど。
「文化祭、出し物通ったよ」
 不安ー、と学級委員女はこぼした。クラスが白けきっているからだろう。
 と言うか、周りを蹴落とすことで精一杯の連中に仮初とはいえ協力関係を結べというのがまず無理な話なのだが。
「大丈夫だよ。わたしも出来る限り協力する」
「本当?」
 佐藤の目がこちらを見る。
 バカだ。そのうわべだけの言葉にどれだけ騙された?それとも騙された振りをしているのか?
 本音をさらせ、ネ暗なお前など要らないと。そうすればあたしも楽になれるのに。
「でも勉強とか大丈夫?無理しなくていいよ」
 勉強などバカのするものだ。勉強ばっかりしているやつには碌な人間がいない。国会中継を見たことないのかこの女は。寝てばかりの穀潰しの爺が殆どだ。
「大丈夫。この間も学年7位だったし!」
 全く意味のないスコアを口にする。この後の人生では、ボウリングの自己ベストくらい意味のない数字だ。
「すっごーい!あたしなんか、真ん中より下だったのに!!」
 佐藤はワザとらしく思えるほどに驚いたが、あたしも意外だった。こいつはもっと勉強に命を懸けて成績に一喜一憂して、無駄に青春を送るような人間だと思っていたのに。それでこいつを見直すつもりもないが。
「成績がいいって、得よね。あたしなんてそのせいでクラブまでやめる事になっちゃったし」
 佐藤は何故か笑った。やっぱりそんな刹那的な規定が欲しくて生きているんだろうか。ならばあたしとは永久に分かり合えないだろう。あたしが欲しいのは、ダイヤモンドのように永遠に輝いてあたしを飾り立ててくれる価値だ。それこそが、あたしが惰性ピラミッドの最底辺から大空へと舞い上がる為の翼になるだろうから。
「大体、学級委員やったって内申点がある訳じゃないし」
 しかも無能ときたか。お遊戯のような学校の係であったとしても、ただやればいいという物ではないだろうに。
「それにでしゃばってるとか陰口叩かれるし。陰口とか卑怯だよね、あたしはその場にいないんだから反論できないしさ……」
 反論する必要がどこにある?恐らくそれは陰口ではなくて改善点だろう。耳を傾けろ、だから成長しないんだ。
「でもわたしはいつでも、佐藤さんの味方よ」
「ありがとう」
 佐藤は微笑んだ。吐き気がするほどベタベタな浅いセリフに彼女は微笑んだ。裏ではどんな醜い嘲笑を浮かべているのか、知りたくなるほどだった。


 今日もまた、何事もなく一日が過ぎた。夏休みがもう間近に迫っていた。期末テストも終わって、授業はいつにも増してだらだらしていた。
 金と労力の無駄だ。期末が終われば即夏休みなら、こんな無駄は生まれないだろう。確かに休みが長くなって親からは文句が出るだろうが、それは学校で本当に勉強してる場合に通る文句であって、現状を思い知らせてやればすぐに納まるだろう。それでも喚くおばんはぶん殴ってやればいい。
 今うちで昼寝をしている中年女などは、明らかにそのタイプだ。連中の押し付けてくる矛盾した秩序など、ぶち壊してやればいい。誰かのエゴにつきやってやるほど、あたしは出来た人間ではないんだ。それは他の誰だって同じ事で、けれどそれを認めずに従おうとするから傷つくんだ。
 何とも思わないふりをしながら笑って、あたしは佐藤の話に相槌を打っていた。
 あたし自身の美意識としては、学校から家に帰る、つまりクソな場所からクソな場所に移動するのは一人が一番なのだが、今日に限って何故か佐藤はあたしと帰ろうとしてきた。あの朝以来、どうも懐かれたらしい。
 邪険に扱えば角が立つ。頭の中で何度殺しても気持ちいいだけだが、町の中で殺すと白と黒の車が赤色灯を光らせながら耳に障る音をたてて走ってくる。あたしがあの中年女を手っ取り早く始末しないのはそういう事だ。
「でね、何て言うかさ……」
 さっきからこいつが何を必死に話しているのかと言えば、今日授業うるさかったよね男子とかやる気ないなら帰ればいいのに全くいつまでも子供っぽいわね、と言う愚痴である。
 この愚痴はいかにも学級委員学級委員していて嫌だ。必死なキャラ作りと言いたいが、案外この女これが地かも知れない。だとしたら侮れない。決して好きにはならないが。
「ごめんね、一方的に愚痴って」
 それを分かっていてやってしまうのだから、この女の空気の読めなさ具合は尋常じゃない。よくもまあ学級委員長なんてデリケートな役目をやっているものだ。
「咲ちゃん、聞き上手って言うのかな、だから……いっぱい喋っちゃうのよ」
 褒めているつもりだろう、しかも心から。お前の言葉などさっきまで注意を向けていなかったのに。
 何故ならあたしは今、前兆と死とアガペについて考えていたから、嘘だけど。
 世の中の会話なんて、愚痴と自分の愚痴を聞いてくれた人に対する賛辞でしか構成されていない、と改めて思った。
「じゃあ、今度はあたしが愚痴聞くよ」
 いいアイデアだと思ったろ?言ってみな、いいアイデアだと思ったって。
 だが、これがいいアイデアでいるには、あたしが日ごろの鬱憤を抱えていなければならない。
 まあ確かに鬱憤はある。けれどそれは、お前にぶちまけたい物じゃない。
「わたしはそういうの、(言いたく)ないから……」
 えーウソー、と大袈裟に佐藤は言った。
 誰がお前なんぞにあたしの黄金をひねり出してやる物か。このスカトロ趣味め。因みにあたしは聖水の方が好みだ、いやいやいやいや。
 まあともかく、うだうだ愚痴をぶちまけるって言うのは、人様の前で糞便垂れ流すのと同じくらいの羞恥プレイである事を、隠れマゾ豚のあんたは自覚しなさいってワケ。
「いいんだよ、誰にも言わないからさ」
 その言葉があたしにとって何だと言うのでしょう?
 お前の前で垂れ流す愚痴はない、と言ったのに意味がとれませんかそうですか、空気読めなさ過ぎですね幼稚園に帰れ。
「相談とか、乗ってあげるしさー」
 いちいち恩着せがましい物言いをする女だ。こういう所も学級委員学級委員していて気に食わない。あー、家に帰ったら八回目のお前の葬式だな。七回目はさっき授業中にあまりに暇だったから済ませてやった。
「あたし達、友達じゃない」
 俺たち友達だよな、なんて事を言ってくるヤツに碌なヤツはいない。そう言うヤツは大抵、運転席で幽霊に足をつかまれているんだ。あたしはまだこの肥溜めのような世界でドロドロしていたいから、お前をワゴンに置いて逃げるけど。
 それにしてもこんな言葉にすがるなんて、天下の学級委員長大明神様様が何かしらの人間関係クライシスを抱えてるという事なんだろうか。
「……なんで、急にそんな事言うの?」
 思わず聞いちまったぜあたし。まあ、これは出していいガスだから。臭わないから。十行ぐらい前の言葉を口に出した時が、あたしのクライシスだ。
「なんかさ、咲ちゃんの心の底からの言葉って聞いたことないなって」
 さっきのがお前の心の中の言葉だったら、お前の心の奥底は宿便溜まりまくりだな。食物繊維をちゃんととれこの便秘。
 実際、あたしも変わらないんだろうけれど。どちらかと言えば快便を通り越して下痢気味だが。
 ただ、あたしには便所と言うか聖地がある。あの文房具屋だ。お前もああいう発散場所を見つけたらどうだ?周りに、と言うかあたしにウザがられなくて済むようになるし。
 当然そんな素振りは露とも見せずに過ごしているわけだから、こんな感情伝わるはずもないのだが。
「あ、ごめん……いきなりそんな事言うの、おかしいよね?」
 黙りこんだあたしの顔を覗き込むようにしながら、学級委員長女は言った。
 何故謝る?あたしが気分を害したと思ったんだろうか。
 ならば惜しい。三角−1点。あたしの気分が悪いのはお前と一緒に歩き始めた時からだ。
「え、あ……じゃあ話題替えよっか?」
 聞くなよ。と言うかそんなご機嫌伺いして欲しくない。
「あたし、邪魔みたいだから消えちゃおうか?」なら大歓迎だが。
「お昼ごはんって、食堂?お弁当?」
 少し間をおいて佐藤はのたまう。必死に考えてその程度か。発想力が貧困だ、ゆとり教育の影響か、単にバカなだけか。
 多分全部正解。
「お弁当」
 バカなりの努力に免じて答えてやる。あんまりだんまりを貫くのもあたしの精神衛生上よろしくない。何か喋らないと本当にこの女を殺ってしまいそうだから。
「へー、お母さんが作ってくれるの?」
 少し羨望の色が口調に見えた。お母さん?お母さんは土に還ったなあ。
「優しいお母さんでいいな、うちのオカンなんて面倒臭いから食堂で食べろ、なんて言ってくる」
 素直なお母さんでいいなあ、うちの中年女は弁当を作らない時に最悪の言い訳をする。
 確かに、事情を知らずに物を言う佐藤に腹が立つ。けれど、何も知らないんだから仕方ないとも思う。言える事と言えない事ってクライシスを招く・招かないの判断の外にもあると思いません、奥さん?
「……じゃあね、また明日」
「うん、バイバイ」
 分かれ道で、やっと無神経佐藤からあたしは解放された。本当に解放された気分だった。まあ、監禁されていた人たちの多くが味わった幸福は、これよりももっと大きな物だったんだろう。あたしの身の回りは平和だから……


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