act.05 太陽も腥く


 バカか?と今まで何百回も繰り返してきた問いを、再び心の中で目の前の中年女にぶつけてみる。勿論、心の中でなので届きはしない。届けるつもりもないし、言ったとしても通じないことは明白だが。
「さすがね咲ちゃん。よく頑張ったわ」
 ぶん殴ってやりたくなるような笑みを浮かべて中年女は言う。
 いや、ぶん殴るだけじゃ足りない。ガソリンを頭からかけて火をつけたくなるような笑みだ。そうすれば本当の「暖かく明るい」笑顔になる。「太陽のような」には追いつかないけれど、これは案外いいアイデアかもしれない。
 よし、誰か灯油持ってこい。
「でも、やっぱり体育がダメね。受験に関係ないからいいけれど……。それよりお母さんが嬉しいのはね……」
 差し出される飴と鞭。甘くないし辛くない。あたしの今の関心事は、この夏場にどうやってこの家に灯油を持ち込むかである。代用として蝋でもいいかもしれない。でも蝋固めとなると、やっぱり量がいるしな……。
 欺瞞に満ちた賞賛もあら探しも適当に流し、通知簿を取り返して自室に戻る。
 混沌が足りないわー。
 勉強机と回転椅子とベッドとクローゼットと姿見ぐらいしかない部屋。ああ蛍光灯と本棚もあったか。あと花の絵とかカーテンとか。
 ともかく、そんな女子高生の部屋としては不健康すぎる部屋で思うのはやっぱりその事だった。
 足りない物なんて何一つとして無い。六十年、七十年も前の事なんて知りもしないし、想像できるなんて無責任な事も言えないが、戦時下の人間ならばこの部屋を見たら羨ましがったんだろう。けれど、あたしは満足できないのだった。
 何もかもがあるのに、何もないのだった。それでいて、多すぎる。
 部屋の片隅の小さな緑のゴミ箱に頭を突っ込んでみる。中にはまあ、丸めたティッシュとこの間捨てた書き損じのルーズリーフぐらいしか入っていない。
 ああ、頭がくらくらする。鼻の奥のほうがスッとなる。けれど、今日はそれがどうしたとしか思えない。
 あー今日は病んでるわー。くしゃくしゃの頭のままゴミ箱の前にぺたんと座って、これからもぐちゃぐちゃと現世を泳いでいくことを思った。
 さし当たって考えねばならないのは、明日からの夏期講習である。あー、こんな暗い女嫌だろ?ゴミ箱に頭から突っ込む女なんて考えられないだろ?一緒にカラオケで盛り上がれる女が好きだろ?周りのヤツは影で「何か根暗なヤツが隣に座ってきた。超ダルイ」とか言うんだろ?でも、あたしの前じゃ何とも思わないフリをするんだろ?
 いや、実際何とも思わないかもしれない。競争で必死だから。
 だったらすごくいい空間だ。あたしはあたしを空気だと思うし、周りもそう思う。これ完璧。
 でもなー、やっぱり人のいるところに興味はわかないなぁ。
 部屋をウロウロとして、カーテンに包まってみる。あー、やっぱり今日は病んでるにゃー。通知簿を破り捨ててやろうか。でも明日予備校に持ってかなきゃならないしなー。
 窓の外を見ると、この建物の庭と向うの庭の間を流れる魅力的なねずみ色が視界に入る。
 何がいいかって言ったら、そりゃ固いところだ。頭をぶつければ簡単に死なせてくれる。あたしもここで脱落しようか、どうしようか。あ、距離が足りないか。
 高校とか嫌ー!あたし昔MAXに入りたかったの!などと叫んでいた中学時代のクラスメイトが思い出される。二年前の今頃か。そいつは受験勉強が本格化して、息切れしてきたんだろうな。今のあたしもそんな感じ。
 ところでMAXって何?あたしはそれより冥府の門に入りたい。カミサマ、あたし自分から柘榴も食べますから地面を割って出てきて、さらって下さい。
 でも現実は固いアスファルトの地面で、その下には下水道とか通ってて、マンホール人も本当はいなくて、ただ害獣と害虫の巣窟でしかないのだった。上の世界となんら変わりない。

 夏期講習が始まってしまった。初日は何故か保護者同伴で、中年女がついてきた。グリコのおまけかお前は。保護されてるなんて思いたくないし。
「ようこそ、高村さん!」
 教室長はビラに顔が出ていた男だった。茶髪で安物のホストっぽかった。いや、ホストなんて見た事ないけどさ。
「君が咲ちゃんだね」
 幼稚園児に話しかけるように膝を折り、加えて口調もそんな感じで、場末のホストは言う。
「これから頑張っていこうな!」
「はい」
 相手のやる気を冷やさない程度の冷静さであしらう。横で中年女がよろしくお願いしますと頭を下げた。場末のホストは笑って、お任せくださいと言った。
「じゃあ、教室は201だから……。あ、あと教科書を……」
 横から事務員がサッとあたしに本の束を手渡した。ありがとうございますと一応言っておいた。一番上に乗っている本を見ると、幾何学模様が描かれた表紙に「ビクトリー・プロミネンス・サマー 数学U 発展編」と書かれていた。無駄に暑苦しい名前の教科書だ。
「案内しますね」
 そう言って事務員は歩き出す。あたしもそれについて行く。後ろで場末のホストと中年女が親しげに話していた。ああ、同級生とか何とか言ってたな。
 お互いに込み入った話もあるんだろう。ここで不倫!とかだったら、あまりにもステレオタイプすぎてお似合いの展開だな。
 流石にないか。あの世帯主の所得に惚れ込んでやってきた女なのだから。医者と塾の支店長、どっちが儲かるかは知らないが。
「お母さま、教室長とお友達なんだってね?」
 先を行く事務員は、振り向いてあたしの顔を覗き込んで言う。
「そう、みたいですね」
 やや怯んだ。何でこんなに近付くんだこいつは。大体中年女と教室長の関係が、あたしやあんたに関係あるのか?
「この場合、お友達紹介キャンペーンの対象になるのかな?」
 知るかボケ。
 あたしの内心の舌打ちなぞ届くはずもなく、事務員はぷわぷわ笑った。
「あー、だったら教室長にも図書券はお渡しすべきかな?紹介してくれた人にも、あげるきまりになってるから……」
 どう思う、と今度は真顔で聞いてきた。ご冗談でしょう事務員さん。あたしに聞くなそんな事。マニュアルを見ろマニュアルを。
「……規定通りにしたらいいと思いますよ」
「えー?」
 何が「えー?」だ。可愛い子ぶってる暇があったらその首の上についているかぼちゃを働かせろ。
「じゃあ、咲さんにあげますね。後で来てください」
「わたしに、ですか?」
 普通じゃねえか。今までの会話は全部無駄か?『無駄無駄ァ!』か?
「あたしか、教室長に……いや、やっぱりあたしに言ってください、帰りに」
「はあ、分かりました……」
 そんな答え方をしたあたしの顔を、事務員はのぞき込んで笑う。
「緊張してる?」
 ……筋違いもいいところだ。リアルに溜息が出るところじゃないか。
「あたしもねー、初めてここに来た時は緊張したよー」
 聞いてねえ。事務員と生徒じゃ違いすぎるだろ、と思ったが、どうもここの卒業生らしい。場末のホストが教室長になる前に、ここに通っていたそうだ。
「あの時あたし、成績悪くてねー。かなり怒られてた」
 今でもよく怒られるのー、とぽわぽわ事務員は弱く笑った。
 お前、今は単にウザがられてるだけだと思う。あたしが場末のホストの立場なら確実にそうだ。
 まあそんな事務員のとりとめのないパ行系トークをオートであしらいながら階段を上ると、すぐに「201」のプレートが見えた。
「どうぞ、うふふ」
 何がおかしいのか。つかめない女だ、まったく。
 あたしはともかくお礼を言って教室の中に入った。



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