act.06 月は輝く 授業は意外なほどすんなり済んだ。基本のおさらいって基本過ぎて笑えた。発展編じゃないのかよ。はいはい加法定理なんてどっかの少女漫画みたいにえっちい家庭教師がいなくても覚えてますからおねーさん、的な。「さいたさいた……」ってね? 講師は理系にしては珍しい女、しかも派手めのねーちゃんだった。絶対さっきの事務員と休み時間に口利いてないと思う。こいつ、何人の男とやってきたんだろう?生徒とも寝てたりして。あたしと一番遠い世界にいる住人だな、と思った。 その、講師の女とは違うベクトルの遠い世界にいる例のぷわぷわ事務員は、無視しようと思っていたのだが、階段を降りてすぐ見つかって図書カードが入っていると思われる封筒を渡された。どうも待ち伏せしていたようだ。他に仕事はないのか、こいつ? 「初授業、どうだった?」 例のぷわぷわした笑いを浮かべて、彼女はあたしに尋ねる。 「……やっていけそうで安心しました」 一瞬迷ったが、とりあえずそう答えておいた。多分世界で最もベストな返答だ。 「そう、よかったー。でも、コース代わりたくなったら、すぐに言ってね」 お前にか?それとも安物ホストの教室長様か?多分後者が確実だろう。こいつ下っ端だし。まあ、今のところそんな必要は見当たらないが。 「先生は、嫌じゃない?」 あたしの予想通り、仲が悪いんだろうか。眉をひそめてこんな事を聞いてきた。 「はい」 一日目では分からないが、単に勉強を教えるだけならば、どんな人格の持ち主でも変わらないし構わないとあたしは思う。 あ、学校の先生は別。特に担任は。あたしは今までロクなのに当たった事がない。 「じゃあ、また明日」 「はい」 明日は土曜日で休みな気もするが、とりあえず肯定しておいた。 ふう、疲れた……。 外に出ると、意外に明るかった。世界は昼の太陽のようなどぎつい明るさではなく、ふんわりとした心地良い色に染まっていた。 街灯の光の為ではない。煌々と輝く、満月が夜空の真ん中から地上へ黄金色の光を降り注いでいるのだ。 あたしはその月の光を吸い込むように深呼吸をした。胸の鼓動が高くなり、すうっと空に浮き上がるような感覚が去来する。珍しく高揚しているのが自分でもよく分かった。ぷわぷわ事務員やら何やらの疲れなど、どこかに飛んでいってしまったようだ。 月の光には魔力があるなんてオカルト話のようだけど、あたしの奥底の混沌と月光がシンクロしているのかもしれない。 そんな調子で月ばかり見て歩いていると、後ろから来た自転車に危うくひかれそうになった。やっちまったぜ、あたし。歩道だからといって近頃は安心出来ない。 意識を空から陸に戻すと、前を歩く影があるのに気が付いた。見た事のある制服を着ていて、見た事のある髪形をしている。そして、あたしをひきかけた自転車に同じくひかれそうになっていた。 ……佐藤葵だ。 ゆらゆらと、力ない足取りで歩いている。その背中はひどく小さく見えた。 話しかけたくはなかった。 話す話題もなかったし、そんな義理もないし、月光があたしに本性を語らせるかも知れないから。 あたしはあいつの前でも世帯主や中年女の前と同じ様に、「大人しい咲ちゃん」でなくてはならないのに。 幸いなことに、相手はこちらに気付いていなかった。ただゆらゆらと歩いていた。けれどその歩みは遅い。このままでは追いついてしまうだろう。 途中の角で曲がるか。あっちは遠回りになるし、ちょっと暗い道。けど大丈夫だろう。月があたしを守ってくれる。 あれは本当は太陽の光だ。だから月の光は嘘だ。真実を反射する偽りの鏡だ。だからこそ嘘で塗り固めたあたしを好いてくれると思えるんだ。 あたしはこっそりと右の暗い方へ曲がった。何故か忍び足だった。途中にセンスのない絵の下に「チカンに注意!!」と赤字で書かれた看板はあったが、何事もなく家に着いた。ちょっと期待していただけに残念……そうでもないか。 ともかく、クソな所からクソな所に移動する時は、やはり一人が一番だと再確認は出来た。 それにしてもあの女、こんな時間に一体何をしていたんだろう?しかも、夏休みに制服で。前の連中のいじめが原因だろうか。それとも、月が綺麗だからか?それこそあり得ないか。 まあ、何にしても関係ない。この間は昼飯をやったが、結局は他人だし。第一、助けるかどうかは助ける側のエゴでしかないんだから。 「咲ちゃん、塾はどうだった?」 中年女が聞いてくる。いつものように当たり障りのない答えをしておいた。 「どこの塾だ?」 世帯主も話に入ってくる。知らないのか珍しい。まあ、どっちでもいいけれど。この問いには中年女が答えた。 「ほう……」 特に感想はないようだ。ジジイ知ったかぶりすんな。いい年して見苦しいことこの上ない。中年女が何か言って機嫌を取ろうとしていた。特に関心もないので、その横を通って洗面所に逃げた。 手を洗っていると、何故か世帯主が大きな声を出した。そして謝る中年女の怯えの混じった声が聞こえる。何と言っているかはよく聞き取れないが、どうも今外出中の兄の事らしい。 勘当同然の扱いをしてるくせに、どうして時々思い出したように干渉するんだあのジジイは。面倒な事、例えばこんな時間に行き先も告げずに外に行ったのを叱るとか、そういう事は全部自分では言わないくせに。俺は言っておいたぞ、なんて保険かけてても、結局効果がなければ同じだとあたしは思うんだが。 それともストレスか?まあ、どっちにしろあたしには関係ないのだが。 庭からガサガサという音が聞こえる。 恍惚の底から起き上がって時計を見ると、午前1時を回っていた。泥棒だろうか、それともまだ帰っていない兄か? 兄だとしたら変に玄関をガチャガチャするなよ、セコムが来るから。泥棒だったら窓でも割れよ、セコムが来るし。 暫くして音は止んだ。やっぱり泥棒か。ちっ、セコムに引っかかれよ。 いや、寧ろ入ってきて中年女や世帯主を滅多刺しにしてくれないだろうか。 でも、そうなると一番危ないのはあたしか。階段を上ってすぐ右にこの部屋はあるのだから。まあ、それでもいいんだが。 暫くすると音がやんだ。なんだと拍子抜けして、あたしがベッドに横たわった時、窓をコンコンと軽く叩く音がした。ドキッとして上半身を起こす。 もしかして、さっきの音の主が壁を登ってきたのだろうか。庭は塀で囲われている。ガレージと庭を隔てる低い塀に登れば、ガレージの上に上がるのは簡単だ。体育だけ2のあたしでも出来るだろう。そして、その屋根からあたしの部屋の真下にあるひさしには簡単に飛び移ることが出来る。そうすれば、窓を叩く事も不可能じゃない。 泥棒か?いや、泥棒なら中の人間に存在を示すワケがない。ならば―― あたしはカーテンをサッと開けた。窓の外には、沈み始めた月の光に照らされて兄の姿が浮かび上がっていた。やはりそうだったか。 その兄はあたしの姿を見るなり、あっと口をあけて落ちそうになった。失礼なヤツだ、と思いながらハッと気がついた。 あたし、全裸だった。 男の中には、女という生き物はそういうことをしないと思い込んでいるヤツがいるらしい。逆に大半はそういうことをしていると思い込んでいるヤツもいる。ああ両極端。脳みそと下半身が直結してるだけあるね。 そう、アレをしてたワケですよ。あたしに限って言えば、週に二回はしないともう……という感じ。さすがにあの日はしないけれど。ほら臭うし、何となくダルいし。 でも誤解しないで欲しいのは、いつもいつも全部脱いでるわけではないということ。今夜は暑かったし、帰ってきたらいきなり世帯主は怒鳴りだすし、で気晴らしが欲しかったのだ。そしてそれ以上に綺麗な月を見て妙に興奮していたのだ。 とりあえず服を手早く着て中に入れてやった。ああ、気まずい。 「お、おう、ありがとう……」 言いながら兄はあたしの目を見ようとはしない。まあ、普通の反応だろう。大人しいと思っていた妹が、深夜に全裸で出迎えたのだから。あたしが兄なら泣くね。 兄は気まずそうな表情で、靴を手に持ちあたしの部屋を横断した。そして、「じゃ、じゃあ」と言ってドアを開けようとしてやめた。 「なあ、咲」 兄は振り返らずに言う。 「こんな時間にどうしたの、とか聞かないのか?」 そっちこそ、こんな時間全裸でどうしたとは聞かないのか、と思ったが聞かれても困るので言わなかった。 「聞いて欲しいの?」 習慣的に「可愛く大人しい妹の声」を作っていた。今となっては効果があるかは微妙な所なのに。誘惑とか、別の効果は期待できそうだが。 「いや別にそういうわけじゃ……。あ、父さんには言うなよ。母さんもダメだ。アルバイトだったから今日……」 そんな事は言われなくても分かっている。そう言いかけてやめた。この人もあたしの事を「いい子ちゃんのグズ」だと思っているのを思い出したから。 「うん、分かった」 あたしの応答を聞いて、兄は謝った。どういう意味だ?悪いなんてそんな事、欠片も思う必要ないのに。 「じゃあな、ありがとよ」 二度目のじゃあなとお礼を言って、今度こそ兄は出て行った。やれやれ、隠れてバイトも大変なようだ。隠れてアレも大変なのだが。 ともかく、行為そのものを見られなくてよかった。お互いに、ね……。 |