act.07 赤は誘う


 予備校の中での時間は非常にダラダラと過ぎていく気がする。ん?どこかで同じ事を言ったっけか。ああ、夏休み前の学校だ。うん、まあ気分的にはそんな感じ。
 とは言え、学校のように無駄なざわめきがないので快適といえば快適だ。モチベーションの違いというのは大きい。
 ただ一つの難点は、教室の大きさに対して人間が多すぎる事だ。狭くてかなわない。
 黒板の前では、例の派手な姉ちゃんが微分がどうの、タンジェントがどうのと言いながら右に左に動いている。授業時間はもうあと五分少々か。全部解説できるのかこの問い?
 何かが視界の端で動いている。鬱陶しいので目線をチラリとそちらに向ける。隣のヤツがゴソゴソと机の上を片付け始めていた。
 おーい、あと五分もあるぞ。こいつが何を聞き漏らそうが知ったことじゃないが、邪魔だし動くのはヤメレ。狭いんだから。
 その隣では地味な格好の女が、やたらと熱心にノートに何か書きつけている。下を向いてるからよく分からないが、どこか見覚えのある横顔だった。
 一瞬佐藤のボケかと思ったが、全然違う。当たり前だ。なんと言うか上品さが違うのだ。そして、何となくエロティカルな感情が呼び起こされる。
 まあ、いくらエロティシズムを感じるといっても、でもそのまま見ていても仕方ない。前に向き直ると、黒板の前の派手女が左側に書いた図を消して新しく数式を書き出していた。あーあ、写せてないのにさっきのトコ。前のやつのノートを見せてもらうか。
 勿論、友達とかそういう区切りの生き物じゃないから、盗み見で。こう見えてもあたしは視力が1.5あるんだ。
 但し、ダサい大きなレンズのMy眼鏡をかけた今限定で。
 そこで時間が来る。でかいブザー音が鳴ると同時に、ぴったり派手女の解説は終わった。前の席のヤツが速攻でノートを閉じやがったので、派手女に質問しに行こうかとも思ったが、件の女講師はさっさと帰ろうとしていたので諦める。デートか?デートか。デートだな。
 筆箱を片付けていると、椅子ごと背中を押された。突然だったので、前につんのめる形になった。横の五分前から帰る準備をしていたバカ男の仕業だ。
 そんなに急いでどこにいくんでちゅか?ママのところに帰るんでちゅか、この早漏ヒョロ眼鏡。どいてぐらい言えねえのかそびえたつクソが。
 思いっきりにらみつけてやりたい所だが、最近は物騒なので自重。まったく、頭の中がケバくてどす黒いお花畑のヤツが多すぎる。あたし?あたしはどっちかと言えば核戦争後の世界でアタタタタ、みたいな思考だと思う。
 あんな男の姿など見たくもないので、あいつが歩いていく方とは逆に顔を向ける。やたら頑張ってノートをとってた子が、筆箱を片付けていた。
 にしても、見覚えのある顔だな、こいつ。何故か、心の奥底から淫靡な背徳の香りが漂ってきた。別にそういうものを想起させる顔立ちではないのだが。強いて言うなら、その取り澄ました顔が歪むのを見下ろしながら腹を踏みたくなるような、加虐心を煽る……!
 そこで気がついた。鈴木茜だ。去年ハンネで万引きをした、学年トップの。学校を辞めたはずだが、別の高校にでも入ったんだろうか?てっきり少年院に送られたんだとばっかり思ってた。まあ、全部が全部送られるわけないか。
 鈴木茜が視線に気付いたのかこちらを向いた。正面から見ても、その被虐的な顔立ちは昔と変わらない。
 あの日、ハンネで崩れたあの顔がここにあった。強烈なブザー音と共に、それがあたしの心の中にフラッシュバックしてくる。
 この思い出があるから、あたしはこの顔を被虐的と表現するのだ。そうでなけりゃ、なんだろう?お澄ましブス、かな?眉毛とか整ってはいるけど濃すぎだし。
「あ、えーと……高村さん?」
 あたしは久々に同年代の人間に苗字を呼ばれてドキッとした。そして、鈴木茜があたしの名前を知っていた事に驚いた。
「鈴木さん、よね?」
 確認するまでもないが、一応社交辞令。鈴木茜は濃い眉をぴくっとさせてうなずいた。

「それにしても、すごい偶然」
「うん」
 ハンネの中のドーナツ屋で向かい合わせになって、かつての学年一位と四位は溜息をついた。
 あたしは再会したことにもびっくりしたが、あの鈴木茜が寄り道をすることにも驚いていた。あと、自分が誘われて素直についてきた事にも。
 絶対学級委員長女とかだったら、言い訳して断ってたのに。彼女と話す事など大してないのに。さっき写し損ねた板書を見せて欲しい、って事ぐらいだ。
 けれど、何かを話したかった。すごく矛盾した感情だ。全然合理的じゃない。これってひょっとすると、彼氏・彼女の抱く感情に似てるんだろうか。どっちもいた事ないから分からないけど。
「あ、ノートだよね。ちょっと字、汚いけど……」
 そう言って鈴木茜は26穴のファイルを差し出す。ありがたく受け取っておいた。
「ここで写して大丈夫かな?」
 まずドーナツ食ってねえしなあたし。飲み物だけとか喧嘩売ってる。世帯主の職業柄、ケーキやら何やら食べ飽きてるという事もあって、洋菓子はあんまり好きじゃないのだ。
「いいよ、急がなくても。あ、そのページだけ持ってく?」
 そう言って彼女は再び自分のファイルを手に取ると、中のルーズリーフを一枚だけとってあたしにくれる。
 おお、便利だルーズリーフ。中年女や世帯主との見解の相違のせいでノート派になってしまったあたしは、素直に感動した。
「ありがとう」
 そこに書かれた字や図は、あの派手派手ヤリマン女講師の字なんぞよりよっぽど綺麗だった。すごく読みやすい。学年一位の真髄を見た気がする。
「高村さん」
 あたしがカバンの中のクリアファイルにそれを入れたのを見計らって、彼女はあたしの名を呼んだ。見ていて気持ちがいいくらいに、しゃんとした姿勢だ。真っ直ぐな瞳にも曇りはない。とてもじゃないが、ここの向かいにある文房具屋で万引きした経験を持つ人間には見えなかった。
「わたしが学校やめた理由知ってる?」
「……うん」
 そりゃよく知っているさ、目の前で見たし。でも、何で今そんな事を聞くんだろう。
 話題に困って?
 いやいや、彼女の態度は模造じゃなく真剣だ。目の前のあたしを刺し殺せるぐらいに。
「それ知った時、軽蔑した?」
 いやいや、寧ろ捕まってる横であんたの顔見ながら軽くイキそうでした。
 うっわー、あたしサイアクだ。冷や汗出てきた。
「そんな事ないよ」
 目が泳いでないか心配だ。実際軽蔑してるわけでないんだから、そういう誤解はされたくない。とりわけ、彼女には……。
 彼女には?彼女のみに、そんな感情を抱くのかこのあたしは。彼女には嫌われたくないのか?他の人間――例えば佐藤葵を始めとするクラスメイトや中年女――はどうでもいいのに。
 いや、そいつらもどうでもいいのか?どうでもいいのなら、何故あたしは繕ってしまうのか。その方が楽だからだ、決まっている。トラブルはないに越した事はない。
 そうだ、この鈴木茜ともそういう事なんだ。トラブルはよくない。お願いだから、そういう事にしておいて。
「学校みんな、すごくわたしの事笑ってたでしょ?すごく、馬鹿にしてたでしょ?」
 自嘲気味に笑って、鈴木茜は下を向く。確かにそうだった。「家庭の問題が」とか「勉強のストレス」とか「本当は成績も泥棒、つまりカンニングじゃないか」とか、心無いことを言うヤツばかりだった。
 あー、何でだろ。今になって腹が立ってきた。それもこれも、鈴木茜がこうして小さくなって下を向いてるせいだ。何だ、そんな可愛い態度取りやがって。言ってた奴等を全員火炎放射器で焼き払いたくなるじゃないか。
 でも、そうなるとあたし自身も裁かれなくてはいけないだろう。何せあたしは彼女のあの時の泣き顔をオカズにしたりしてたんだから。しかもそれに味をしめて、あんなゲームを始めたんだ。大昔の宗教儀式が英雄や神々といった、アーキタイプの行為をなぞっているのと同じ様に。
 そうしても、何もあたしに生み出さないのに。
「わたし自身も、すごく馬鹿な事としたと思う。今でも何であんな事をしたのか、分からないけど……」
 二度と行けなくなっちゃったしねあの店、と彼女は力なく笑った。
 きっと、今はもうしてないんだろう。いや、その言い方はおかしいか。生まれてから今まで、あの時以外は万引きなんてしていないのだから。そして未来も、多分しない。
「……あ、ごめんね変な話して」
 相当あたしが陰気な顔をしていたんだろう。鈴木茜は慌ててそう謝った。
 すごく悪い気がした。こんな辛い話をしてくれたのに、うまく対応できないなんて。
 うまい対応?それは一体なんだ?分からない。こんな状況初めてだから。あたしも話し相手も、どっちも心を誤魔化すこと以外に真剣な状況なんて。すごく疲れるものだ、まったく。
 そう、あたしはすごく参っていた。
 どうした高村咲?何に押し潰されそうになっている?
 彼女の言葉か?
 存在か?
 けれど不快感は感じない。彼女の話がもっと聞きたい。悩みを全てぶちまけて欲しい。
 できれば、彼女の力になりたい。何故あたしは今夜、こんなに乱されるのを求めてるんだ?
 暫く他愛もない話をして、あたしと彼女はドーナツ屋を出た。塾の上がりが早かったお陰か、あまり遅くはなっていない。怒られるであろう時間はまだまだだ。
 じゃあ明日、と言ってあたしと彼女は別れた。


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