act.08 青は招く 予備校は一週間行き続けたら、しばらく休みになった。次はお盆明けか、長いな全く。 その間は暇で暇で仕方がない。日程がつまると息もつまるかな、と思ったがさほどでもなかった。鈴木茜にも会えないし。 あれ以降、ああしてお茶したりする機会はなかったが、それでも話す相手がいるというのは精神の健康によい事らしい。よく分からないが楽しかった。そりゃ沈黙がインドじゃ苦行になるはずだ。 あたしはこうして変わっていくんだろうか。こうして、混沌を捨てていくんだろうか。 それは少し惜しい気がする。あたしがあたしをやめる前に、もう少し足掻いてみたい気がする。 何をするかなんて分からないんだけども。 久方ぶりの退屈だった。あの夏休み前以来だ。 中年女は忙しく出かけているが、何をしているのかは知らない。多分遊びだ。夕ごはんは冷凍食品が多くなった。中年女が何か買ってきて、それを食べるという事もちょくちょくあった。 そんな事もあってか、世帯主は何だかここの所情緒不安定だった。やたらと大声を出す。何を言っているのかはよく分からないが。そんな医者にはかかりたくない、とちょっと思った。まあ、人間誰しもそんな時もあるだろ。あの男は最近少々大人しかったし。あたしが眼鏡を掛けだした中2の春に「縁の細い眼鏡はふざけてるようにしか見えない!」と大暴れした事と比べればだが。 兄はちょくちょくあの時間に帰ってきて、あたしの部屋を通り道にしている。あの日以来あたしは自重して、ともかく全裸ではしないようにしている。兄にも「今日は裸じゃねえの?」と聞く余裕が出てきた。妙な共犯意識が芽生え始めていた。 だるだると数学の宿題をこなす。塾とちょいちょい内容が被っていた。向うはもっと高度な事もやっているので、こっちの方が楽ではあるが。それでも、いやそれ故に一時間も続けていると飽きてくる。ドロップアウトしたくなるが、ここであたしまでそうするワケには行かない。夜に散歩も出来ないし、すっげージレンマ。 相変わらず混沌が足りなかった。世の中もあたしも、現状維持の方向に傾いているように見えた。意識下で欲しいのは自在天の破壊で、実のところ維持も宇宙の真理も興味がないのに。 その時電話が鳴った。トゥルルルル、とかじゃなくて何故かうちのはドレミ音階である。珍しく家にいた中年女が出る。暫くして階段を上る音がし、次いでドアをノックする音が聞こえた。 「どうぞ」 ドアを開けたのは、やはり中年女だった。手には子機を持っている。 あたしに電話?連絡網か? 誰かが死んだという知らせだろうか。あのよぼよぼ社会科教師辺りは、如何にも死にそうな感じだが。 それとも学級委員長女が自殺とか。いじめを苦にして?どれだけステレオタイプなんだあの女。テレビの見すぎだ。 「咲ちゃん、佐藤さんという子から電話よ。知ってる子?」 佐藤? ああ、学級委員長の女か。一瞬この二つが結びつかなかった。じゃあ、あいつの自殺と言うことはないな。死んだ人間は普通電話できない。 「うん。ありがとう」 子機を受け取ると、中年女は部屋から出て行った。 しかし、階段を降りる音はしない。ドアの向うで聞き耳を立てているのだろう。まったく嫌らしい。この国で盗聴していいのは警察だけだ。 「もしもし?」 『もしもし咲ちゃん?』 突然名前で呼ばれて驚いた。何様のつもりだ?あたしと友達にでもなったつもりか? 「うん」 もー、ケータイぐらい持ちなよー、と佐藤は電話の向うで溜息をついた。あたしの生活にはそんなものはまったくもって不必要だと思うが。お前の尺度で何でも測るんじゃねえ、ハゲ。 「何?連絡網?」 『違う!遊びに行こう、って誘おうと思って』 「遊びに?」 やばい、こいつあたしを友達認定しやがった。 俺、この戦争が終わったら結婚するんだ……ちっ、後につかれた!振り切れねえ!!ボブ、ボブ今……!!ドーン!!ベトコンめ、よくもボブを!! ……的なノリだ。ちょっと優しくしてやったら付け上がりやがって。 『そう!映画見に行ったり、カラオケに行ったり、ボウリングしたり……』 マジでか。このままだとあたしもいじめの対象にされかねない。そんな事も考え付かないんだろうな、こいつは。くそ、一人で便所飯でもしてろ。 いや、寧ろあたしを生贄にして逃げようと考えているのかもしれない。Holly Shit!! なんてヤツだ。成功する可能性が希薄なのに気付かないとは。寧ろ向うにとっては盗れる金が増えて向うはウハウハー、になるだろう。 『で、今週の土曜なんだけど、空いてる?』 残念ながら空いている。ひきこもりのニートの如く予定がない。だが、嘘をつくのは造作もないことだ。三歳児程度の知能があれば、エイプリルフールじゃなくても出来る。 「ごめん、ちょっとその日は……」 『え、そう?じゃあ、いつでもいいわ!』 マジで?ありえない。そんなに暇か夏休み?勉強しろ勉強。 あたしなんて特にビジョンもないのに医学部受験と言う目標を建前にしてたせいで、夏期講習なんてイベントに巻き込まれているのに。 だが、焦るなあたし! 大丈夫だ、夏休みと言えばこれがある。伝家の宝刀を抜け! 「しばらく田舎帰らないといけないし、帰ってきてからも予備校、だから……」 大嘘だ。あたしに田舎なんてない。世帯主の両親はすぐ近くに住んでいる。中年女の実家には帰り辛いみたいだし。 『うそー。じゃあ、仕方ないわね』 「うん、ごめん」 うそー、と言われた時一瞬ドキッとしたのは内緒だ。紛らわしい相槌打ちやがって。 まあ、ともかく乗り切った。安堵の溜息をついて電話を切る。 すぐに中年女が入って来る。計ったようなタイミングだ。実際ドアの向うで電話が終わるタイミングを見計らっていたんだから、当たり前なのだけれど。 「佐藤さんって誰?」 クラスの子よ、と淡白に答えて子機を渡した。 「嫌なお友達なのね」 そう言われて一瞬酷い自己嫌悪に襲われたが、気付かない振りをした。 「いいのよ、無理してそんな人と友達にならなくても」 中年女は何故かそう言ってあたしのご機嫌をとった。意外な反応である。 てっきりどんな人でも仲良くしなくちゃ、とか説教されると思っていた。 驚いて中年女の顔を見上げると、思いつめたような表情をしていた。 涙もなく泣いているようにも見えるそれは、あたしが初めて目にする顔だった。 「嫌いな人に嫌い、と言えるうちが幸せなのよ。大人になるとそうもいかなくなる。とりわけ……」 そう言いかけてハッとしたように口をつぐむ。そして顔を伏せた。とりわけ、なんだ? 「ごめんなさいね、変な話をして……」 そう言うと彼女はそそくさと部屋を出て行った。その表情はいつもの、貼り付けたような笑顔だった。だから「とりわけ」何なんだ?あたしはよく分からなくなった。 多分、彼女の中の何かに障る事だったんだろう。それが何かは心当たりがなかったが。 まあ、あたしが確証をもって言えるのは一つだけ。彼女が思い違いをしているって事。 当たり前の話だが、子供だって殺したいほど嫌いな相手でも、壁を作って何とも思わないように過ごしているのだ。例えば、あたしとお前の仲のように。 |