act.13 ダストシュート


 あたしは一体、何をしているんだ?
 半歩前を歩く佐藤葵は、自分とあたしとの出会いは運命だと言った。
 バカげてる。そんな運命ぶっ壊したい。いや、マジで切実に。あたしはこいつと会いたくなんてなかったのだから。
 この女は、あたしの中で最も思い出したくない女と似ている。そうだ、そうじゃないか。こいつに感じる嫌悪感は、恐らくそこに原因があるんだ。
 何故今、それを思い出す?答えは分かっている。ここが小学校だからだ。あたしがニ番目に思い出したくない記憶、それが小学校時代の事だからだ。
 あの小学校も、ここと同じような内装だった。あたしが卒業せずに、途中で出て行った忌まわしき学び舎。名前はもう、忘れてしまった。


 消火用の水を貯めたバケツが、あの廊下にはあった。あたしはそのバケツが嫌いだった。火事なんてなかなかないから、水が腐ってたくさんの綿ボコリが浮いたまま放置されているからだ。
 水道がつまらないように、排水口につけられた網の目の入ったざるのような物が嫌いだった。あれの目詰まりを掃除するのは、いつもあたしの仕事だったからだ。破滅的な臭気の漂う得体の知れない黒い汚物、他人の髪の毛、噛んだガム、そして痰なんかが絡んでいる場合もあった。いつもそれを掃除しながら泣きそうになった。
 教室の外に干された、汚らしい雑巾が嫌いだった。時々バカが牛乳を教室にこぼして大騒ぎになることがある。そんな時に使われた雑巾は、拭いた跡の方が前よりも臭くなるし、自分の手も臭くなるしで、最悪だった。更に、そんな雑巾が故なく飛んでくる事もあったから。
 給食の時間が嫌いだった。丸めた紙やチョークの粉を汁物に入れられるから。鈍感で想像力のないバカな担任は、それを食べろと強要し、あたしは監禁された。教室の隅で、掃除をしている横で食べさせられた。ホコリにむせて吐き出すと、食べ物を粗末にするなと怒鳴られた。
 いつからだっただろう、おやつのプリンをとられたあたしが叱られ、とったやつが褒められるクソな幼稚園に通っていた時、あんなに憧れた小学校に行きたくなくなっていたのは。
 いつからだっただろう、幼稚園にしろ小学校にしろ中学校にしろ高校にしろ大学にしろ会社にしろ工場にしろ農家にしろ自分の家ですらも、どんな所も結局はクソだと、世の中の全てはクソだと諦めを抱いたのは。

 あたしはイタい子だった。成績はよく、お遊戯みたいなテストで100点をとって喜んでいた。何にも分かってなくて、世帯主をパパと呼び、バカで幼稚で夕方のアニメが楽しみな、それだけでとても幸せだった時代を確かに生きていた。
 クラスメイトの誰とも仲がよく、だからこそ誰とも親密な仲ではなかった。バカ正直にみんな友達だと思っていた。
 誰かが誰かを泣かせたら、仲裁に入った。誰かがカンニングしてたら、先生に言う前に注意した。それでもダメなら、先生に言った。正義の味方を気取ってた。
 心の奥底から、そんな態度を理想だと考えていた。「友達なら、悪い事は悪いと言いなさい」そうママに教えられたとおりにしていればいい、と思い込んでいた。
 高学年になるにつれて、それは辛くなっていた。必然である。そして気がついたらあたしは、いじめの渦中にいた。原因なんて当時は分からなかった。ただ、連中が「親なし」などとあたしを呼んでいたから、当時は母親がいないせいだと思っていた。
 今考えたら、それは大きな見当違いである。単にあたしがいい子ちゃんぶっていたからだ。あたしがチクリ魔だったからだ。だからウザがられたんだ。小学生というのはそれだけで充分な時代なんだから。
 最初あたしをいじめていたのは、やたらと自己主張が激しく、他人に意見を言うのが得意で、それをクラスの総意にしてしまう力があるような権力者女子だった。群れていなければ何も出来ない、頭がかわいそうな女の子様だった。こいつは佐藤に似ている。自分を他人に押し付けてくる所や、学級委員なんかになりたがる所がそっくりだ。
 それは無視から始まった。今となってはステレオタイプすぎて、腹が痛くなるほど笑える。次はバイ菌扱いだった。わざわざ近くに寄ってきて、「うわ菌ついたー!」なんて言って手を洗いに行った。近寄らなければいいのにと思った。
 そして次の日には、机の上に花瓶が置かれた。今となってはコントである。コント。たらいが落ちてきたりするぐらいの当たり前さ。死んだことにされたあたしは死んだことを受け入れて静かに過ごした。連中が飽きるだろうと思ったから。
 しかしそれは怒りを買っただけだった。一週間後には、クラス全員が参加していた。集団心理と言うのは恐ろしい。全員が固まって何かする、という事に吐き気を感じるようになったのは、この経験のせいだろう。
 男子が参加して、いじめは物理的になった。雑巾で顔を拭かれたり、男子トイレに入れられたり、定番だが個室に閉じ込められて水をかけられたりもした。そして稚拙な替え歌を歌う。これらも今やコントの域だろう。馬鹿げている。
 教科書は隠され、ランドセルは中がボロボロにされた。やるのは男子だが、指示は佐藤のような女が出していたのだろう。この親にばれないようにする陰湿さは彼女のものだ。第一、脳足りんの小学生男子にそんな知能は皆無だろう。
 佐藤のような女はあたしと掃除班が一緒だった。だから、あたしは掃除を全部押し付けられた。当時この班は水飲み場の掃除担当だったので、あたしは三角コーナーやら排水溝やらを雑巾を投げつけられながら掃除した。惨めさに涙が出かけた。
 プールの授業では下着を隠された。男子でいじめられていたヤツがあたしの下着をはかされていた。今考えれば、そいつは稀有でお得な経験をしたと言えるだろう。死んでいなければだが。あたしもいじめられていなければいじめているであろう、体も心も矮小な少年だった。後々教室で自殺未遂をするような男なのだ。
 そのいじめられ男も、佐藤のような女も取り巻きも、男子のやんちゃな連中も黙認派も、そして当時のあたし自身も、みんながみんな醜い人間だったと思うが、最悪だったのは担任だった。
 こいつはあたしの訴えを無視した。しかも、バラした。次の日にチクりやがって、と罵られながら消化用水を頭からかけられた。臭かった。その日一日臭かった。そして雑巾の絞り汁を汁物の椀にいれられた。担任はそれを飲めと強要した。死ねばいいのにと思った。あいつは知ってて言ったに違いない。
 どこにも味方はいなかった。あのいじめられ男も大概カスだから、お前臭いと蹴ってきた。さっき顔に投げつけられたこいつのブリーフの方が臭かったが。
 世帯主には絶対言えなかった。兄貴の受験と自分の仕事で大変そうだったから、「わたしが煩わせるわけにはいけない!」なーんて殊勝な事を考えていたのだ。
 そのブリーフの臭いいじめられ男が、死んでやるとか騒いだ日に、あたしはふと気がついたのだ。

――自分が死ぬんじゃなしに、相手を殺せばいいじゃないか。

 どこか冷めた頭の片隅で閃く衝動。これは、当時のあたしにとっては、たった一つの冴えたやり方に思えた。


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