act.21 紫は生まれ変わる 窓から夕陽が見える。部屋の天井と壁はオレンジ色に染まっていた。 夕陽があたしの影を作る。床と転がる死体は赤色に染まっていた。 足元に寝転がる人間を、床の間の刀で動かなくしてどれくらい経っただろう。 刃に付いた血は、ベッドのシーツで拭いた。改めて持つと、やったら重たかった。よくあの時、これを持ち上げて突き立てるところまで出来たものだ。 そうしなければ、あたしは死んでいたに違いない。 だから許して、母さん。あなたがかつて愛していた人を殺しましたけれど。 目の前の仏壇に心の中で謝った。 その時、階下でガタッと音がした。死体が蘇生したか?もう1ラウンドか?冗談。多分、兄貴が帰ってきたんだろう。ただいま、と声がした。 足元に抜き身で置きっぱなしだった刀を鞘に収めて持ち、あたしは取りあえず兄貴に相談する事にした。彼は怒るだろうか、嘆くだろうか。警察に行けというだろうか。 重たい刀を両手で持ってあたしは階段を降りる。返り血まみれのあたしの姿を見て、兄貴は悲鳴を上げそうになった。 「お父さん殺したんだけど、どうしよう?」 「は?」 兄貴は何が何だか分からない、といった様子で口をあんぐり開けた。 あたしは口に出した事で、やっとそれを実感として受け止められた。 それにしても、人を殺したのに何と冷静なあたし。まるでそれが当たり前かのようだ。 あたしには、人殺しの才能があったのかもしれない。 何とか兄貴を落ち着かせて廊下に座らせ、あたしは大橋緑が夫と呼ぶべきだった男に殺された事と、あたしが父と呼ぶべきだった男を殺した事を伝えた。そしてその死体が、それぞれ居間と彼らの寝室にある事も。 「そうか」 幾分冷静さを取り戻した兄貴は、溜息をつきながらそう言ってタバコに火をつけた。ふわふわと煙が舞い形を変えて漂い、甘いバニラの香りが血の臭いを消してくれる気がした。割と早く我に帰ってくれてよかった。死体を見せていたらこうは行かなかっただろう。 「そうか……」 そしてまた同じ事を言って、大きくタバコの煙を吐いた。あたしの周りでタバコを吸うのは彼だけだ。基本的にタバコは嫌いなのだが、高校生だった頃から吸っている不良少年なので、もうあきらめている。それに今日は、ちょっとやめてと言いにくいし。むしろあたしも吸いたいぐらいだ。吸って煙吐いて、やれやれだぜとか言いたい。 「で、これからどうするか、だが……」 兄貴は自分がもたれている収納の上に置かれた電話を見上げた。ファックスは付いていない小さい電話。鳴ると普通の呼び出し音じゃなくて、何故かドレミ音階が流れる電話。 あたし以外は全員ケータイを持っているので、さっぱり使っていないように思う。 「警察?」 やっぱりそれか。けれど、まるでそれ以外の選択肢があるかのような言い方だった。気になったので尋ねてみると、兄貴はややあきれた表情になった。 「いやさ、俺が言うか、咲が自分で言うかの選択ぐらいしかあり得ないんだが……」 それはそうか。なら自分で言おう。ただし、電話じゃなくて直接警察に行く形がいい。 「だから、車出して」 運転できないとは言わせない。あたしは知っている、高校時代から彼が他人の車を乗り回していた事を。 「俺が無免許運転でパクられるから、ダメ」 電話でいいじゃねえかよ、と兄貴は言う。 いやあ、家族内の問題で国家権力にご足労願うのも悪いと思うわけよ。律儀な殺人犯としては。 もしそう言ったとしたら、この兄貴はどんな顔をするだろう?多分、不謹慎だとか何とか言って怒るんだろうな。「反省や後悔や罪悪感がないのか!」とか、そういう反応。 でも面白いじゃない、それ。今までのイメージ覆す感じで。もうあたし、周りの反応とかどうでもいいから。殺人犯ですから、みんなそっちで規定してくれるから。 何だか心のタガが外れた気分だ。本当はそれ、外すべきじゃないんだろうな。 あたしがそう言おうと口を開いた瞬間、チャイムが鳴った。 あたしは兄貴を見て、兄貴はあたしを見た。二人はお互い顔を見合わせて、ちょっとおかしかったけど、彼はやっぱり少し悲しそうだった。まあ妹が父親を殺したんだから当たり前だけど。そう考えると一番迷惑を被ったのは兄貴だな。 「俺が出るよ……」 声も元気がない。それでも自我を保ってくれているのははっきり言ってありがたかった。兄貴はインターフォンを取って、その隣の小さな液晶画面を見た。 「はい……って、君はあの時の……」 あの時の?そう言うからには彼の知り合いだろう。宅配便の兄ちゃんとかに「君はあの時の……」なんて普通は言わないし、世帯主やらの知り合いにそんなフランクな物言いはしないだろう。それにしても、兄貴の知り合いが訪ねてくるなんて珍しい。 「いや、今咲は……」 何故か兄貴はあたしの顔をうかがう。何だと言うんだ?まさか、あたしの知り合いとか?そして、兄貴も知ってると。 そんなの一人しかいないじゃないか。 「佐藤葵でしょ?」 「あ、ああ……」 やっぱりそうか。こんな時に来るなんて、間が悪いヤツだ相変わらず。 「上がってもらったら?」 「え?でも、お前その格好じゃ……」 その格好。ああ、そう言えばあたし血塗れだった。男の人にはきついぐらいの血みどろ。自分の血じゃないから忘れていた。 あたしは何だ可笑しくなって、こみ上げてくる笑いを抑えるために深くうなずいた。「着替えてくるから、適当に話し聞いといてくれない?」 そう言って、兄貴の横を通りすぎ、階段に足を掛ける。 「いいけど……。何かお前、変わったな」 兄貴はあたしの背中に向かってそう言った。 「別に。いつもより多く、思った通りの事をしてるだけよ」 そう、心のままに生きているんだ。今のあたしに何も恐れる物はなかった。 部屋のドアを開けて中を見渡す。片隅に置かれた姿見が目に入った。近寄って布をめくり、中をのぞきこむ。血塗れの女がそこにいた。 ひどい有様だ。白いワンピースに呪いの紋様が刺繍されたみたいだ。この間は草の汁がつくし、この服はロクな目に遭ってない。 けれども、これが正しい姿のような気がする。いつもいつも、ぴっちりと気の抜けた顔をして学校に通っていた時よりは、数倍マシだ。おかしな話だが、生き生きしている。 要するにこれがあたしの真の姿だということか。殺人者の、この相が。嫌だな、それ。 人殺しがあたしの本性か。知りたくなかった。そんなヤツ、生き残らなかったほうがよかったんじゃないか。 そう思った時、何故か母さんのことが思い浮かんだ。 彼女は死んだが為に、遺したあたしに好き勝手思われて、かなりいい母親の理想像を押し付けられている。そんないいヤツじゃなかったのかもしれないのに。 鈴木茜にしてもそうだ。きっと彼女のクラスメイトは、好き勝手彼女を値踏みしている事だろう。あの万引きの時のように。そして、あたしも。遺書を受け取ったとはいえ、全然彼女の本当のトコロは知らない。 そうか、だから死ぬのはオススメできないのか。後々好き勝手言われても、一切訂正できないから。あたしは、あたしであると言う事さえ出来ないから。 ならばやはり、鈴木茜よ、君は死ぬべきではなかった。死ぬべきではなかったのに。 だからやはり、高村咲よ、あたしは死ななくてよかった。生きていてよかったのだ。 そしてやはり、佐藤葵よ、お前は死ぬべきではない。生きていていいんだ。 さあ、急ごう。早ければ早いほどいい。あたしはワンピースを脱ぎ捨てる。そして着替える前に、いつだったかと同じようにペタンと座って、鏡の前で笑顔を作った。 何ていい笑顔なんだ。これだけ見れば、誰も今日二親をいっぺんに亡くした少女の顔とは誰も思わないだろう。赤ん坊の笑みのように安らかだった。 そうだ、あたしは今日新しく生まれたのだ。父の腹を破って。だから、もう二度とここには帰れない。この母の胎には。 |