三 これでもう後に引けなくてよ? その1




 
クラスで気付いたこと…… 特にありません


 黒い革張りの表紙と紙の束を、紐でまとめた学級日誌の、ずらりと並んだ最後の四角を、伊東優歌は今までの人生で一番よく書いた文章で埋めた。
 終業後のホームルームから、既に三十分近く経過している。教室には、誰も残っていない。少し時間を使いすぎたようだ。
 入学から一週間が過ぎた昨日から、学級日誌が出席番号順に回り始めた。二日目なので、二番の優歌が今日の担当である。
 昨日の担当だった市川ルミは、備考欄にテンション高めの自己紹介を書いているが、優歌はあまりそれに乗っかる気分にはなれず、また元々物を書くのが苦手なため、「伊東優歌です。一年間よろしくお願いします」程度にとどめておいた。
 正直言って面倒くさいだけだった。前述の「クラスで気付いたこと」もそうだし、「備考欄」だってそうだ。ルミもよっぽど面倒くさい伝統を生んでくれたものである。
 四月の頭から、事件やトラブルなんて早々起こらない。例えば廊下で野球をして騒ぐなんて、小学校か少なくとも中学の時に卒業している。
 もし何か目に付いたことがあったとして、誰の目にも触れる日誌に書けるようなものはないだろう。例えば何かを糾弾したら、次トラブルに巻き込まれるのは優歌かもしれない。
 こんなのって、一切役に立たないと思うんだけどな。そんな事を考えながら、とりあえず優歌は、教員室の野川教諭に日誌を届けた。
「ふーん、ご苦労さん」
 日誌のページをぱらぱらと確認し、無感動な調子で白衣の国語教師は鼻を鳴らした。
「薄い自己紹介だな、伊東」
「ええ、まあ……」
「市川みたいに、自分のクラブの紹介とかしたらいいのに」
 野川の言うように、ルミは陸上部に入っていること、まだ部員・マネージャー共に募集中であることを書いている。
「あんまり普通のクラブでもないんで……」
「え? 何部に入ったんだ?」
「自由創作部ですよ!」
 顧問なのに、何すっとぼけてるんですか、と優歌は目を三角にする。
「入ったのか、あの後」
 優歌は首肯した。
「何でまた? まさか俺のファンか!?」
「それはないです」
 露子と同じ反応をするのは止めてほしかった。
「じゃあ……全裸になりたかったとか?」
「それもないです」
 やはり、顧問ですら自由創作部といえば全裸なのだろうか。
「ストレス溜まってるんだなあ、伊東」
「ないって言ってるじゃないですか!」
 今まさに、全裸と担任のせいで溜まり続けてはいるが。
「ただの、流れですよ……」
「ふーん。まあいいけど」
 そう言いながら、野川は自分のスチール机の上に置かれたファイルの束に目をやる。
「あいつらも、ようやく真面目に新入生の勧誘を始めたようだしな」
「え?」
 不穏なワードが聞こえた気がする。
「さっき、チラシとか準備してたぞ。あんな格好するなんて、張り切ってるな」
「ちょ、止めてくださいよ!」
 新入生の勧誘。あんな格好。そしてこれまで見てきた自由すぎる部長の行動。これらが優歌にもたらす答えは一つ。
 つまり、部長が全裸でチラシを配っている。
 そうに違いない。これまで押し止めてきたと言うのに、遅くなったせいでこんなことになるなんて。
「何で止めにゃならんのだ?」
「そこは普通、顧問の責任じゃないですか!」
「まあ、確かに行き過ぎかもしれんけど、俺はああいう発想はありだと思う」
「なしです!」
 顔を真っ赤にしてそう言う優歌に、やれやれと野川は首を横に振った。
「そこまで言うなら、止めて来いよ」
「いや、先生も来て下さいよ!」
「俺を頼るなよ。高校生にもなって、先生先生って、恥ずかしいぞ」
 取りつく島もない。
「そんな無責任な!?」
「生徒が解決できることは、生徒がやる。それが自由教育ってやつだ。俺が出張るのは、お前らの手に余ることだけだ。本当に危なくなったら助けてやるから、極力は」
「今回のは、わたしが解決できると?」
 野川は大きくうなずいた。
「それに、問題だと思ってるのお前だし」
 言い出した以上は、自分でやらなくてはならないということか。
 チラシを配ってるのは第一校舎の前だ、と野川に教えられ、優歌は大きく息をついて、失礼しますと教員室を出た。




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